悲しい過去を持つ直線の国境
世界地図を見ていると、アフリカや中東、アメリカとカナダの間の真っ直ぐな国境線に気が付きます。
不自然ではないでしょうか?
世界で最も長い、真っ直ぐな直線の国境は、カナダとアメリカの間にあります。
その長さは何と8.891km。
日本とドイツの間の直線距離にもほぼ匹敵します。
なぜそんなにも長い直線の国境があるのでしょうか?
直線の国境がある所には、実は悲しい歴史があります。
それは戦争や植民地争奪戦などの、国の利権争いで生まれたからです。
特にひどいのは、アフリカと中東です。
1884年、ビスマルクが西洋諸国に呼びかけて、ベリリン会議を開きました。
その会議で、誰(どの西洋諸国)が、どのアフリカの部分(国)を植民地として支配するかを決めようというものでした。
各西洋諸国は、自国の取り分を主張し合って、現地に住む人たちの民族性や地域性、文化を無視して奪い合いました。
単に西洋諸国の欲の張り合いの結果に直線の国境が出来上がりました。
その結果、民族間での争い、つまり内乱や戦争が起きて、多くの死傷者が今日まで出続けています。
つまり、アフリカでの悲惨な戦争や内乱の元になったのは、西洋諸国の白人たちの欲の突っ張り合いです。
中東も同じです。
1915年、第一次世界大戦で負けたオスマン帝国の分割を決めるために、イギリス人のマーク・サイクスと、フランスのジョルジュ・ピコによって、秘密協定が結ばれました。
サイクス・ピコ協定と呼ばれています。
その協定で、アフリカのように取り分(植民地)が決められました。
すぐその後に起こったアラブ反乱を始め、今日まで続く中東での争いごとも、元はと言えば西洋人たちの支配欲からきています。
スリランカは1948年に独立しましたが、その後も元々の民族であるシンハラ人と、インド南部から来たタミール人とで内戦が続き、凄まじい殺し合いが繰り広げられましたが、その責任はイギリスにあると言えます。
人口の15%ほどがタミル人ですが、イギリスはタミル人にのみ高等教育と銃を与えてシンハラ人を支配させました。
白人の植民地政策の基本パターンである、自分たちで直接現住民を支配するのではなく、そこにいる少数民族によって主民族を統治させる方法が民族対立を起こしました。
独立後、自分たちの国を取り戻そうということで、シンハラ人優遇政策が取られ、タミル人の追い出しが行われたのです。
その民族対立が26年間も続く内戦となり、それが集結した2009年までの間に多くの命が失われました。
タミル人に対するシンハラ人の憎悪は今日でも消えることがなく続いています。
アメリカは戦争を起こす時には世論を味方につけるために、必ず大義名分の理由を作ります。
それはインディアンの迫害から始まり、イラク進行、フセイン大統領の殺害まで続いています。
大量破壊兵器などという、ありもしない疑いをかけて、フセイン大統領を死に追いやっています。
私にはイラク人の親しい友人がいますが、彼はフセイン大統領の肖像画が描かれた腕時計をしています。
どういうことかというと、フセイン大統領は国民から親しみ愛されていたのです。
西暦1500年頃から約500年もの長い間、西洋の白人たちが、世界中で日本とタイを除く、ほとんど全ての有色人種の国々を植民地にして貪っていました。
なぜ日本とタイは植民地にならずにすんだのか?
日本は当時、世界最強の国だったからです。詳しくは、➡︎ 「日本という国とは?」あるいは、「日本人とは?」をお読み下さい。
タイの場合は、イギリスが支配する国と、フランスが支配する国に挟まれて、タイが丁度緩衝地帯になっていたことと、それを元に国王の交渉が巧みであったからです。
有色人種に対する白人のとてもひどい仕打ちは、そのあまりの酷さや、過去の著名な白人たちの発言から、白人にとっての有色人種は家畜や物と同じと考えているフシがあります。
有色人種は、白人と同じ種類の人間の部類には入らないというわけです。
アメリカでは昔、若い娘さんが着替えをしている時に、召使いの黒人男性がそばにいても気にしなかったそうです。
それがもし白人の男性だったら娘さんは恥ずかしくて着替えなど出来ません。
一般市民が普通に生活している日本の各都市に集中爆撃を行ったり、
広島や長崎に、原爆のような恐ろしいものを落とせるというのもそこから来ているのではないでしょうか?
当時は、元気な若い日本人男性はみんな戦地に行っていたので、残っていたのは女性、子ども、年寄り、病気や怪我の男性しか残っていませんでした。
普通はそんな所に原爆などを落とせるわけがありません。
哀れな有色人種の宿命なのでしょうか?
15世紀の末、ポルトガルとスペインの2ヶ国は、ヨーロッパ大陸を飛び出して、彼らにとっては未開の地である有色人種の国々を次々と植民地にしていました。
当時の2ヶ国の勢いは凄まじく、その頃の約200年は大航海時代と言われ、両国の間でトルデシリャス条約というものが結ばれて、世界を大きく2つに分けて支配していたと考えていました。
その中で有名な例は、コロンブスのアメリカ大陸発見でしたが、当時彼らが到着したのは中南米で、現在でも現地で使われている言語はポルトガル語かスペイン語です。
日本は世界の東のはじにあり、彼らのヨーロッパからは最も離れていて、到着したのも最後でした。
コロンブスは当初、自分が発見したのは日本を含めた最東端の大陸ではないかと思っていたようです。
その理由は、13世紀に長く中国にいたマルコ・ポーロが残した「東方見聞録」を読んで、金が豊富に取れる、日が登る国「ジバング」の存在を知っていたからのようです。
その当時は日本もアメリカ大陸もヨーロッパ人には知られていませんでした。
日本に最初に到着したのはポルトガル人で、その時に鉄砲が日本に伝わりました。
ポルトガル人は、日本から得られる自国の利益を優先して、後から到着する他国の船があると、それらの国々を排除していました。
例えば1600年にオランダ船で日本に着いたイギリス人の航海士ウィリアム・アダムスは、徳川家康に気に入られて活躍しました。
三浦按針(みうらあんじん)という日本名や領地まで与えられ、さらには武士として帯刀を許されましたが、到着(漂流)しばかりの時は命が危ない状態でした。
先に到着して既に日本に足場を築いていたポルトガル人が、日本との交易を独占するために、彼やオランダ人は海賊であるから死刑にした方が良いと幕府に嘘をついたのです。
徳川家康はその進言を聞き入れずに彼とオランダ人4人を大阪に呼び寄せて話しを聞くと気に入り、彼は徳川家康の元で造船や、西洋の進んだ学問を教える役や、海外アドバイザーとして活躍して厚遇されました。
ですが、南蛮(南の蛮人)と呼ばれた日本に来る当時の外国人たちの基本的な本来の目的は侵略と植民地化であることが分かったので、徳川政権は鎖国に踏み切りました。
鎖国の間は、長崎に作られた小さな人口島である出島においてのみ、1639年まではポルトガル人のみと、その後はオランダ人のみに限って南蛮貿易と呼ばれた交易が続けられました。
西洋人、後にはアメリカも加わった欧米人は、基本的にどの国も植民地主義を持っていて野蛮だったので、南から来た野蛮人ということで南蛮人と呼ばれました。
当時日本にやって来る南蛮人は例外なく船乗りで、船乗りとは元々荒くれ者が多いこともその理由であったと思われます。
最初の南蛮人が日本に到着した頃の日本では、食事には箸を使っていましたが、南蛮人はまだ手づかみでした。
その当時から日本人は鼻をかむのに紙を使って、その都度捨てていましたが、南蛮人はひとつのハンカチで何度も鼻を噛んではポケットに突っ込んでいました。
植民地主義とは、搾り取れるより多くの植民地を持って自国を富ませることですから南蛮人は基本的に貪欲です。
日本との交易は自国一国が独占できれば良いと他の国をお互いに除外し合っていたのは、もし日本を占領できれば複数国で占領するわけにはいかないので、自国一国で独占する必要がありました。
鎖国中に最初は中国とポルトガル、その後に中国とオランダだけが交易を許されたのは、海外との交易や情報収集を全く絶ってしまうのは得策ではなかったと判断されたと思われます。
南蛮人は特別な時以外は出島から出ることを許されず、出島の土地使用料は高いのに交易の規模は小さく、その価値があったのかどうかが疑問だったそうです。
日本とタイ以外の周りのアジアの国々はどこも植民地化されていて、南蛮人が日本侵略、植民地化を狙っていたのは隠しようのない事実でした。
ポルトガル人が追い出されたのは、リスボンに向かっていた一隻のポルトガル船がオランダ人に拿捕され、そこで見つかった手紙に、日本人のキリスト教徒がポルトガル人と組んで徳川幕府を転覆させるためのポルトガルからの艦船と兵士の派遣を依頼する内容が書いてあったからだと思われます。
ポルトガル人とオランダ人の間は犬猿の仲で、そのことはすぐに幕府に伝わり、以前から宣教師の傲慢ぶりに業を煮やしていた幕府は、全てのポルトガル人及びキリスト教を永久に追放、入国や貿易、交流を一切禁じ、破るものは死罪としました。
イエスズ会の宣教師たちはまだそうではなかったものの、後からやって来たドミニコ会、アウグスティノ会、フランシス会の宣教師たちには不遜で傲慢に振る舞う者が多くて、武士をないがしろにし、それらの会の宣教師たちはイエスズ会といざこざを起こしていました。