南京事件

南京虐殺などが本当にあったのか、それともなかったのか?

 

今日それを証明できる人はいません。

 

よって、反日左翼と親日、保守、右翼の間でよくあるように、あった、なかった、を言い争うのは意味がありません。

 

誰がどう思うのかはその人の自由に任せましょう。

 

ですが、日本人には元々謙遜、謙虚、譲り合い、人に迷惑をかけない…   

 

という世界でも稀な国民性があり、そのことがその理由にも貢献して多くの日本ファン外国人を持つ国の、たまたま当時の南京にいた軍人だけ異常だったのか? 

 

という疑問を持ち、あった、なかったの両方の情報を集めてみると、どうやらこれは反日勢力の捏造らしいと思えてきます。

 

少し残念なのは、日本ファンドイツ人の中には南京虐殺があったと信じる人がいて、それを否定しようものなら、「南京虐殺を否定したら、それはドイツ人がユダヤ人虐殺を否定するようなもの。それは歴史修正主義だ…」と言います。

 

日本人が悪い方に誇張して書いた南京虐殺の本がドイツ語で出版されているからです。

 

人間はどうしても最初に読んだ本や、子どもの時に習った教科書に書いてあることを受け入れてしまいます。

 

後から入ってくる情報は否定しがちです。

 

なぜなら、最初に入っている情報は既に自分のものになってしまっているからです。

 

それでもそういうドイツ人には感謝です。(もし本当にあったとしたら)南京虐殺などを行う日本(人)にもかかわらずにファンになってくれるからです。

 

ちなみにナチスのユダヤ人虐殺と、南京の虐殺との間には、とても大きな違いがあります。

 

その違いとは、前者には否定しようがない動かしがたい証拠が残っていて、後者にはそれが無いことです。

 

そして前者の場合はナチスのせい、あるいはヒットラー1人の責任になっています。

 

それ自体も本当は問題なのですが…

 

後者の場合は、信憑性のない証拠しかありません。捏造の画像とか…

 

それもひどい場合は通州事件(在中日本人が中国人に虐殺された事件)の画像が用いられたりしています。

 

あったことを証拠によって証明することは出来ますが、なかったことを証明することは出来ません。

 

よって、悪魔の証明と呼ばれるそうです。

 

天安門事件がなかったことのように歴史を捏造する国のひとたちが主張する歴史のお話を信じられるでしょうか?

 

 

以下は、インターネット上で見つかる情報です。なるべく多くの情報を集めてみて、本当にあったであろうか、無かったであろうかの判断は皆さんが自分でなさってください。

中国政府によると、1937年12月の南京大虐殺の被害者、死者は30万人に及んだ、あるいは東京裁判では20万人であったと言われているそうです。

 

ところが、城壁に囲まれた世田谷区の5分の4ほどの面積の南京の人口は当時20万人くらいだったそうです。

 

「ようやく15万を超える小都市」

フランクフルター・ツァイトゥング、リリー・ベック記者


「15万人の南京市民が非難した安全区」    米国紙・ライフ


「陥落直前の人口は20万人」      南京警察長官、王固磐

 

 

「安全区の食糧確保に頭を悩ませており、

(20万人という) 人口の把握は正確だった」

国際委員会

 

「人口は22万1.150人」

国際委員会メンバー、南京大学社会学教授スマイスが

多数の中国人を動員して調べた人口

 

 

 

そして、国際連盟・国際委員会の調べによると、南京の人口は日本軍による占領以降急増しているそうです。

 

1937年12月 20万人

1938年  1月 25万人

1938年  8月 31万人

1938年12月 44万人

 

日本軍の入城(虐殺?) から1年で、人口が2倍以上になっています。1937年12月の20万人は、どこから現れたのでしょうか?

 

 

30万人というと、広島、長崎の原爆被害者、東京(他都市)の大空襲でなくなった方々の合計数に匹敵します。

 

それだけの人間が亡くなって、今まで騒がれなかったのでしょうか? 

 

死体はどこに消えてしまったのでしょうか?

 

当時の南京は土も凍てつく12月。

 

そんな中でスコップとツルハシで遺体の埋葬作業を行なうには、屈強な人間が何千人で何日間もかかります。

 

その人間をどうやって用意したのでしょうか?

 

もしその人間が中国人なら、彼らは虐殺されなかったのでしょうか?

 

つまり、それだけの人数の埋葬が可能である人間が残っていれば、虐殺はなかったという矛盾になります。

 

東京裁判で提出された埋葬表によると、崇善堂という慈善団体が11万体、紅卍字会という慈善団体が4万体の遺体を埋葬したことになっていますが、崇善堂は南京陥落から翌年の8月まで活動を停止していたことが明らかになっています。

 

紅卍字会も、作業代欲しさに埋葬数を水増ししており、東中野修道亜細亜大教授は、実際の数字は1万4千と推定。

 

それらは戦死した中国兵や処刑された便衣兵とみられます。

 

古今東西、戦闘で兵士が死ぬことを決して虐殺とは言いません。

 

さらには、大宅壮一、西条八十、草野心平、石川達三、林笑美子らのジャーナリストが陥落勅語の南京を訪れているものの、誰一人として虐殺やその痕跡を目撃した人はいません。

 

そして中国国民軍でさえ、南京陥落3ヶ月後の1938年3月の臨時大会で行った軍事報告で、南京の「失陥」には言及しているものの、「大虐殺」には触れていない。

 

同じ年の7月に蒋介石が発表した「友好国への声明」でも、南京ではなく広東空襲を非難しています。

 

中国共産党の当時の記録や、毛沢東の演説にも「南京大虐殺」は存在しません。

 

「南京大虐殺」が国際的に非難されるのは、戦後の東京裁判が初めてです。つまり、東京裁判と呼ばれる、戦勝国が敗戦国をさばくというとんでもない東京リンチで、とにかく日本を悪者にしようとでっちあげられたお話のひとつです。

 

その後、北村稔立命館大学教授や、作家の(故) 鈴木明氏の取り組みで、中国側の史料のみを使った実証的研究も行なわれました。

 

その結果、「南京大虐殺」の証拠とされてきた本の著者は国民党政府に金で雇われていたエージェントであることが分かりました。

 

オーストラリア国籍で英紙マンチェスター・ガーディアンの中国特派員、ティンパーリーという人物です。

 

南京に行ったことさえもない彼は、「戦争とは何か - 中国における日本軍の暴虐」という自分の本にそのことを書き、1938年7月にニューヨークとロンドンで出版しました。

 

英国の一流紙の特派員の本ということで信頼がよせられましたが、そこには「非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁近くで殺されたことを埋葬証拠は示している。その内約3割は決して兵士ではなかった」と書かれています。

 

埋葬証拠とは前述の紅卍字会の水増しした数字です。この4万人という数字を国民党は粉飾して30万人にふくらませたようで、南京大虐殺はこの本から始まったようです。

 

当時日本軍が南京に迫ると、蒋介石軍は南京放棄を決め、日本軍に宿舎や陣地として使われないように、南京城外半径約6kmの家屋を「清野作戦」と呼ばれるもので焼き払ったそうです(中国ではこの行為もも日本側の仕業と主張しています)。

 

蒋介石をはじめとする政府関係者や比較的裕福な住民は全て脱出。司令官の唐生智は日本軍の降伏勧告に応じずに、陥落前夜に将兵を置き去りにして敵前逃走しました。

 

南京に残ったのは比較的に貧困層で、欧米15人による国際委員会が管理する「安全区」に全て集められました。

 

そこには軍服を脱いで民間人になりすました中国兵も大量に紛れ込んでいました。

 

別冊「正論」 2014年4月号

 

南京虐殺を示すという写真等も出回っているそうですが、それらが嘘の証拠物であることも判明しています。

 

ひどいものなどは、当時中国に住んでいた日本人を中国人部隊が信じられないような方法で虐殺した時(通州事件) の写真が使われました。

 

 

1937年に起きたと言われる捏造の南京大虐殺は、1927年に起きた、最初の南京事件から続く、漢口事件、上海事件、盧溝橋事件、廊坊事件、公安門事件、通州事件とつながった一連の事件です。

 

それらの事件を時系列で整理して理解していくのが一番良いと思います。

 

1937年頃の中国は、共産主義化を目指す中国共産党と、民主主義を目指す蒋介石率いる国民党との間で内乱が続いていました。

 

さらには欧米列強に各地をいいように支配されていました。

 

欧米列強は、内乱に対する平和維持活動ということで、日本も含めて軍隊の一部を派遣していました。

 

そんな時に起きたのが盧溝橋事件です。

 

日本軍は中国国民党軍と一緒に北京の近くで駐屯していました。

 

日本軍が実弾を持たずに演習していたところ、その日本軍に発砲があり、両軍が戦闘状態になりました。

 

今日ではその発砲が、中国共産党の軍のものだったと言われています。

 

日本軍と国民党軍を戦わせれば、共産党軍は漁夫の利を得られるというものです。

 

ですが日本軍はそこで冷静に国民党軍と停戦協定を結びました。

 

目論見が外れた共産党は、北京近くの廊坊駅で、国民党軍の軍用電線が壊れたのを修理に行った日本軍に対して発砲し、14人の死傷者が出ました。= 廊坊事件

 

日本はすぐに増援部隊を送りましたが、北京の公安門を通過中に急に門が閉ざされて発砲を受け、新たに19人が死傷しました。= 公安門事件

 

2つの事件を起こした共産党の学生暴徒と国民党の部隊の一部約3千人が、今度は北京郊外の通州市に住んでいた385人の日本人を襲いました。

 

385人中の223人が、とてもむごたらしく惨殺されました。= 通州事件

 

それがどんなにむごたらしかったかは、ここで書くには耐え忍びませんので、インターネットで調べてみて下さい。

 

インターネットには、さまざまな本当の情報と、ウソの情報が出ています。

 

ではどうやって、その情報の真偽を知ることが出来るのでしょうか?

 

例えば南京事件ですが、これは反日勢力から、慰安婦問題などと同じように南京虐殺と流布されています。

 

ところが、例えばナチのユダヤ人虐殺などのような、否定しようのない証拠がありません。

 

反日勢力が持ち出す証拠は、保守派によって簡単にそのウソが見破られています。

 

慰安婦問題については、少し考えてみれば、算数と一般常識でそのおかしさが分かります。

 

ところが例えば通州事件は、次のように逃げ延びたり、実際に現場を見た人たちの証言が残っています。

 

同盟通信記者、安藤利男

 

支那駐屯歩兵第二連隊長萱島高中将(通州事件後に駆けつけた日本軍の長)

 

同上村尾大尉夫人

 

冀東政府長官秘書孫錯夫人

 

保安総隊顧問村尾昌彦大尉夫人

 

同上歩兵砲中隊長代理桂鎮雄元少佐

 

同上桜井文雄少佐

 

興味深いのはここからです。

 

こういう事件が起こると普通、欧米では賠償のための講和会議が行われます。

 

事件を起こした悪い方が、被害者にどうやって賠償するか、罪を償うかを決めるものです。

 

欧米ではこういう時には必ず多額の賠償請求を行います。

 

約4千人がほぼ無傷で助かった義和団事件では、当時の中国の国家予算の何倍もの金額となりました。

 

通州事件では、中国から信頼が厚くて元外交官の実業家、紡績組合の理事長であった船津辰一郎に全てが委ねられました。

 

その結果、蒋介石側に和平を働きかけるというものでした。

 

日本は、満州事変以後に得た権益のほとんどを放棄する代わりに、中国側は満州国を黙認して、反日運動を取り締まるというものでした。

 

それは日本にとって不利益なことも含めて全部丸々中国側の言い分を丸呑みするので、争いをやめようというものでした。

 

そこで通州事件に対する賠償請求をしないというところまで譲歩したのです。

 

日本人はいかにお人好しで外交に弱いかということが分かります。

 

さらに通州事件の証言の中からは、襲われている日本人のひとりが、

 

「日本人は逃げろ〜!」

 

と叫んでいたそうです。

 

「助けてくれ〜!」ではなくて、

 

「日本人は逃げろ〜!」なのです。

 

東日本大地震の時の遠藤未希さんを思い出してしまいます。

 

自分のことよりも、他の人のことなのです。

 

 

南京事件の実態

漢口事件、盧溝橋事件、廊坊事件、公安門事件、通州事件と、争い事が続きました。

 

まずはその前に起きた、第一次世界大戦からの理解も必要です。

 

第一次世界大戦の時、ドイツ他と戦っていたイギリスは日本の同盟国でした。(それが日露戦争の日本の勝利の大きなのひとつです)

 

その関係から、青島(チンタオ)ビールで知られた中国の一部に侵攻して植民地としていたドイツ軍を攻めるようにイギリスから依頼を受けました。

 

そこで日本軍はドイツ軍に勝利し、ドイツ人の捕虜は日本の板東俘虜収容所に送られて美談が生まれました。

 

第一次世界大戦後の講和会議で、日本にはドイツが占領していた中国の一部の統治が委ねられ、日本の外交官他、それを守る軍人も移住していました。

 

そして1927年に起きたのが最初の南京事件です。

 

蔣介石が率いる国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍(総指揮・程潜)が南京を占領した時に、日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件がその始まりです。

 

数に劣る日本軍他西洋諸国は、規律正しいと思われた国民党軍に襲われて、暴行や略奪、強姦を受けましたが、その中には後に台湾を救った根本博中将もいて斬りつけられました。

 

漢口事件:

1927年4月3日、国民革命軍の武漢攻略の際、一部の無秩序な軍隊と暴民が漢口の日本租界に侵入し、掠奪、破壊を行い、日本領事館員や居留民に暴行危害を加えた事件。漢口四三事件とも言う。日本海軍の軍人も傷害や暴行を加えられた。

 

そして日本は通州事件のような悲惨な事件が起きたのにもかかわらず、世界の常識を破って船津工作に基づいて、中国国民党軍と停戦協定を結ぶことになりました。

 

その停戦協定締結の日の朝に起きたのが上海事件でした。

 

海軍上海陸戦隊の大山勇夫中尉が車で移動中に、中国の保安隊に機関銃で撃たれて殺されてしまいました。

 

射殺後に中尉は車から引き出されて頭部を2つに割られるという奇行も行われました。

 

停戦協定は当然なくなりました。

そしてその翌週に、上海に駐屯していた4千2百の日本の日本の海軍陸戦隊を、5万人もの国民党軍が襲ってきました。

 

そこには約3万人もの日本人居留民もいたそうです。

 

決定が遅い日本の政府は、それでも松井石根大将率いる10万人からなる派遣軍を送りました。

 

国民党軍は、それに対して60万人もの部隊で迎え撃とうと準備をしていたそうです。

 

強い日本軍は何とか勝利したものの、4万千人もの死傷者を出しました。

 

その時のイギリスの新聞の報道が残っているそうです。

 

「国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の市民の危険が非常に小さくなった。我々は日本軍に感謝すべきである」

 

上海を落とした日本軍は、国民党軍のトップである蒋介石を追って、敵の本拠地である南京に進みました。

 

城外での激しい戦闘の後、日本軍は1週間後の何時何分に砲撃を開始すると明記したビラを撒いたそうです。

 

そこには一般市民もいるので、その市民に避難する時間を与えたのでした。

 

国際法にのっとった行動です。

 

12月10日に総攻撃が開始されて、13日に南京城は陥落しました。

 

14日に入場した第10軍の山崎参謀の日記が残っています。

 

「南京城東部は、広漠たる空き地にして都市計画の雄大さを認む」

 

つまり、日本軍が攻めてくることを知った国民党軍は、市民たちを追い出して、火を放って何もかも燃やしてしまっていました。

 

残っていた敵を掃討した佐々木第30歩兵旅団長の日記では…

 

「住民はひとりも顔を見せない。痩せ犬だけが無表情に歩いたり寝そべっていた」

 

歩兵第38連隊の戦闘詳報によると…

 

「興衛および十字街付近は、小集落の点在をみるも、住民は居住しあらず。敵はこれらの家屋をほとんど焼却し退却せり」

 

そしてニューヨークタイムズのダーディン記者は…

 

「中国軍による焼き払いの饗宴 / 1937年12月7日、日本軍が進撃を始めた。これが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となった。南京に向けて15マイル(約24km)に渡る農村地区では、ほとんど全ての建物に火が付けられて村ぐるみ焼き払われた。農業研究所、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関にも向けられた。中国軍による焼き払いの損害は優に3千万ドルにも及ぶ」

 

ちなみに国民軍のトップ、蒋介石は上海で日本軍にかなわなかったので、南京でも勝てないと思ったのか、12月7日の時点で既に南京から逃げてしまっていたそうです。

 

そこから蒋介石の戦法が変わりました。実力では敵わないと思ったのか、プロパガンダに訴えるようになったのです。

 

30人〜40人もの内外のジャーナリストや外交官を集めて、年間に300回も記者会見を行うようになりました。

 

その記者会見では、有る事無い事、日本軍が不利になるプロパガンダを行ったのですが、南京の戦いの話しは一度も出てきませんでした。

 

南京虐殺はその後に捏造されたお話しなので、その頃の蒋介石は、まだそれを思い付かなかったわけです。

 

つまり南京虐殺は、

 

20万人は大袈裟でも、何万人かはあったのでは? とか、あるいは

 

何千人かはあったのでは? 

 

というお話しではなく、全くなかった、完全なるフィクションというわけです。

 

ちなみに南京は終戦後に日本軍が去った後、中共軍に制圧されて、一般市民の約3人に1人が殺害されたそうです。

 

 

 

 

オックスフォード大学を卒業し、イギリス軍大尉としてインドに4年間駐留した後に、ファイナンシャル・タイムズ、その後エコノミスト誌の東京特派員、そしてロンドン・タイムズ、ニューヨーク・タイムズの東京支局長を歴任した、ヘンリー・スコット・ストークス氏によると...:

 

『南京大虐殺』にしても、信用できる証言は何ひとつとしてなく、そればかりか中国が外国人記者や企業人を使って世界に発信したプロパガンダであることが明らかになっている。

 

『慰安婦問題』については、論ずるにも値しない。

 

だが、これまで日本人が日本の立場から、これらに抗議し正していく動きはほとんど見られないか、見られてもごく僅かだった。

 

今の国際社会で『南京大虐殺はなかった』と言えば、もうその人は相手にされない。

 

ナチスのガス室を否定する人と同列に扱われることになる。

 

残念ながら、これは厳粛なる事実だ。

 

だから慎重であらねばならない。

 

だが、日本が日本の立場で、世界に向けて訴え続けなければ、これは歴史的事実として確定してしまう。

 

日本はこれまでこうした努力が異常に少なかった。

 

日本は相手の都合を慮ったり、阿諛追従する必要はない。

 

アメリカはアメリカの立場で、中国は中国の立場で、日本は日本の立場でものを言う。

 

当然それらは食い違う。

 

だがそれでいいのだ。

 

世界とはそういうものである。

 

日本だけが物分かりの良い顔をしていたら、たちまちつけ込まれてしまう。

 

もうひとつ私が声を大にして言いたいのは、『南京』にせよ『靖国参拝問題』にせよ『慰安婦問題』にせよ、現在懸案になっている問題のほとんどは、日本人の側から中国や韓国にけしかけて問題にしてもらったのが事実だということだ。

 

この問題をどうするかは日本人が自分で考えなければならない。

 

日本人は、いまだに連合軍がでっち上げた『戦勝国』史観の呪いから抜け出していない」

 

 

 

 

 

 

 

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