マシュー・カルブレイス・ペリー

実はペリーが親日であったかどうかは分かりません。ですが、黒船による日本への航海記である「ペリー提督日本遠征記 上・下」を読むと、日本(人)に感心して多くの賞賛の言葉を述べているので、間違いなく親日であると判断できます。

 

 

「日本語の発音は、すっきりしていて明瞭で、聞きやすく、英語のアルファベットが2、3字以上も入るような長い音節はほとんど耳にしない。

 

その一方で中国語は、単調な歌でも歌っているように曖昧で抑揚がなく、耳障りで次々に飛び出す子音の響きが不快感を増している。

 

アルファベット音を元に分析してみると、中国人は帯気音のHを非常にはっきりと発音するが、日本語にはその音はなく、代わりにFを発音する。

 

RとDについては、英語と同じように日本語でもはっきり区別して発音されるが、中国語では必ずLになってしまう」

 

「日本人は元来率直で、一般的な話題の時は打ち解けてよく語り、立派な道義心を持っているのである。歴史を見ても分かるように、彼らは賢く快活で、その歴史が示すように、明敏さも兼ね備えた非常に勇敢な民族であり(少なくとも我々の意見では)東方の文明諸国の中ではずば抜けて優秀な国民だと思われる」

 

「日本の法律は極度に厳格である。おそらくこの法典は、世界で最も残忍なのではないだろうか。犯罪に対する刑罰としては、大抵の場合は死刑が規定されている。

 

日本人は、ある法律を破った者は別の法律をも破ることが考えられ、また故意に法を犯すものには社会的信用は与えず、彼らの法律は簡単明瞭で、さまざまな形式で適切に交付されるので、誰もそれを知らなかったと言い訳することはできない。

 

また、訴訟手続きも法律と同様いたって簡単である。日本には職業としての弁護士はいないため、誰もが自分自身の弁護人となる資格を認められる」

 

「実際、宣教師たちは日本人を愛していた。初期の宣教師たちは異口同音に、日本人の従順さと善良さを好意を込めて語っている。ザビエルも『日本人のことはいくら語っても語り尽くせない。彼らは本当に我が心の喜びであった』と述べている」

 

「日本人はきわめて勤勉かつ器用な民族であり、製造業の中には他国の追従を許さないほど優れたものもある」

 

「木材や竹材加工において日本人と比肩しうる国民はいない。日本にはまた、世界に冠たるひとつの技術がある。それは木工製品の漆塗りである。他の国々も長年にわたってこの分野で日本人に追いつこうとしてきたが、成功しなかった」

 

見聞を広めるために、吉田松陰が弟子の金子重之助を連れてペリーの黒船に乗せてもらい、アメリカに連れて行ってもらおうとしたことは有名です。

 

その時の、ペリー側からの記録です。

吉田松陰と金子重之助は、まずは陸上でコンタクトしました。

 

「近寄って来た2人を見て、この日本人が地位と身分のある人物であることが分かった。いずれも高い身分を示す2本の刀を帯び、幅広で短い立派な金蘭の袴をはいていた。

 

彼らは上流階級に共通する礼儀正しく洗練された物腰をしていたが、明らかに落ち着きがなく、何かやましいことをしているような当惑の様子が見てとれた」

 

「この事件は、知識を増すためなら国の厳格な法律を無視することも、死の危険を犯すことも辞さなかった二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして興味深かった」

 

ですが、このことが幕府に知れるとことがこじれると考えたペリーは断り、吉田松陰はその後に死罪となりました。

 

「人々を他国民との交流から孤立させている政府の排外政策が緩和すれば、他(先進西洋)の国民の物質的進歩の成果を学ぼうとする好奇心、それを自らの用途に適用する心構えによって、日本人はまもなく最も恵まれた国々の水準に達するだろう。

 

ひとたび文明世界の過去および現代の知識を習得したならば、日本人は将来の機械技術上の成功をめざす競争において、強力な相手になるだろう」

 

「建築において最も立派な見本は、石の土手道と橋である。石橋はしばしば一層の厚いローマ式アーチの上に造られ、その設計と石工術は、他の国の最も科学的で芸術的な建造物に匹敵するものである」

 

「印刷所は見かけなかったが、本は店頭に並んでいた。たいていは安価な初歩的実用書、通俗物語や小説だった。人々は全般的に読み方を習っており、情報収集に熱心なので、明らかに本の需要は大きかった。

 

教育は帝国中に普及しており、中国とは異なって、日本の女性は男性と知的進歩を共有しており、女性特有の才芸に秀でているだけでなく、日本の文学にもよく通じていることが多い」

 

「彼らの情報は実に驚くべきものであった。最も後に彼ら自身が明かした話によれば、長崎のオランダ人を通じてヨーロッパから文学、科学、芸術、政治についての定期刊行物を毎年受け取っており、その一部は翻訳されて刊行され、帝国中に頒布されるのだという」

 

「(北海道南東の)大黒島の住民の大部分はアイヌ人で、サザンプトンの来航に仰天して、家財道具を背負って港や集落から慌てて逃げ出すのが見えた。そのため陸地は閑散としてしまった」

 

ペリーの来航は、沖縄、東京湾、下田、函館などでしたが、日本人も蒸気で動く大型の黒船に驚いたものの、家財道具を背負って逃げ出すということはなく、ここに記述あるアイヌ人だけです。

 

これは単なる憶測ですが、アイヌ人は北海道以北で、ロシア人からの襲撃を受けて白人の恐ろしさを知っていたのではないでしょうか。

 

「(安政東海)地震によって生じた災禍にもかかわらず、日本人の特性たる回復力が発揮されていた。これは彼らのエネルギーをよく物語るものである。彼らは気落ちせず、不運を嘆かず、雄々しく仕事に取りかかり、ほとんど意気消沈してはいないようだった。

 

ポータハン号が到着した時、日本人たちは忙しく片付けと再建に取りかかっていた。連日あらゆる地方から石材、木材、屋根葺き材、瓦、石灰などが運び込まれ、ポータハン号が出発するまでには約300軒の家がほとんど、または完全に出来上がっていた」

 

 

 

「下田は文明の進んだ町であることが見てとれ、町を建設した人々の衛生や健康面への配慮は、わが合衆国が誇りとする進歩をはるかに上回っていた」

 

 

ペリー他著「ペリー提督日本遠征記 上・下」

ペリー一行の日本上陸。M・C・ペリー、F・L・ホークス著・編集 「ペリー提督日本遠征記 上・下」

 

「島民(沖縄の人たち)が周囲に群がり、たちまち親しくなった。とは言ってもその態度はやはり礼儀正しかった。彼らはこざっぱりとした青や鮭色の芭蕉布の長衣を着ており、(不潔な中国人とは対照的だったからか)これまで見てきたどの民族よりも清潔であるように思われた」

 

「村はどこも大きくて繁栄しており、イギリスの田園のように整然として垣根がめぐらされていた。我々は中国の不潔さと汚らしさを見慣れてきただけに、琉球の村の行き届いた清潔さと秩序とに、いっそう爽やかさを覚えたのだった」

 

「まず琉球人(沖縄県民)が非常に清潔だったことである。提督は首里について次のように語っている。『これほど清潔な都市を私は今まで見たことはない。一片のゴミや塵も見ることはなく、中国のあらゆる都市の汚さとは非常に異なっている』」

 

 

「もしザビエルと彼の仲間たちによって始められた仕事が、彼らのような人々によって続けられていたなら、果たして帝国内でキリスト教を禁じる厳しい法律が発布されていたかどうかは大いに疑問である。

 

しかし、こういった謙虚で邪気がなく勤勉な宣教師たちは、まもなくゴアとマカオから続々とやって来るドミニコ会、アウグスティノ会、それにフランシスコ会の修道士らに、数で圧倒されるようになった。

 

彼らはイエスズ会の成功の世評に心を惹かれてやって来た。収穫を得るための労なしに、ただやって来て刈り取りさえすれば良かったのである。しかしフランシスコ派とドミニコ派は互いに反目し、全ての教団がイエスズ会といがみ合った。

 

イエスズ会の宣教師たちは、どうか自分たちの経験を生かし、いさかいをやめて日本の法律や習慣を重んじるようにと懇願したが、聞き入れられなかった。

 

こうした各教団の行動は、その希望や目的のみならず、日本におけるキリスト教の発展、ひいては存続にとって致命的なものとなるだろうという説得も無駄だった。

 

全ては徒労に終わった。日本人改宗者の目の前には、聖職者同士が相争い、異教徒と結託して相手を打ち破ろうとするといった奇妙な光景が繰り広げられた。

 

力の弱い日本人のキリスト教徒でさえ、この反目と抗争にふける好戦的な聖職者たちを和解させようと懸命になるほどだった。

 

したがって、こうしたローマ・カトリックの修道僧たちの抗争も、日本からキリスト教が追放される一因となったと考えられる。

 

しかしそれだけではなかった。16世紀の終わり頃には、一般のポルトガル人でも、その高慢で貪欲で押し付けがましいところが目に余るようになり、日本人の顰蹙を買った。

 

黒船上で行われた夕食会。M・C・ペリー、F・L・ホークス著・編集 「ペリー提督日本遠征記 上・下」

 

聖職者の多くはその本分を忘れ、罪を戒めるどころか裕福な日本人に取り入り、そのおこないの適否も吟味しないまま活動を続けていた。

 

聖職者たちは、実に俗人と変わりなく高慢だった。日本人のキリスト教徒でさえ、彼らの精神的な師が魂の救済に費やすと同じくらいに自身の富を築くことに多大な努力を払っているのを見て衝撃を受け、同時に嫌悪感を抱いたと言われている。

 

今日までの日本の伝統には、帝国内におけるキリスト教の衰退を見ることができるが、そうなったのも一つには宣教師の貪欲さ、好色さ、そして傲慢さのためなのである。

 

彼らはまた、日本の制度と慣習をあからさまに見下し、故意に政府の高官を侮蔑した。1596年には大迫害の発端となったと言われる事件が起こった。

 

あるポルトガル人の高僧が、登城途中の政府高官に街道で出会った。両者ともそれぞれ籠に乗っていたのだが、日本の慣習ではこのような場合、僧侶の方が止まって籠を降り、その貴人に敬意を払わなければならないことになっている。

 

ところが、この決められた礼儀を尽くすどころか、僧侶はその高官を一瞥もせずに顔を背けて駕籠かきにそのまま進むように命じた。

 

明らかに意図的におこなわれたこのはなはだしい無礼に高官は激怒し、傲慢な僧侶を含めたポルトガル人全てに執念深い憎しみを抱いて皇帝に陳情した。

 

皇帝の威光と国家の尊厳が、ポルトガル人の強い自負心と不遜な態度によって傷付けられたのである。時の皇帝は別説で既に述べた太閤(豊臣秀吉)だった。

 

彼は帝国の法律や習慣が横柄な異国人に踏みにじられるのを黙って見ていた最後の支配者だった」

 

「数世紀前のポルトガル人のように、帝国の転覆を企てかねない外国人を入国させるのは、利益をあがなうには代償が高過ぎると懸念していることも分かっていた」

 

 

「日本人は、あまり好戦的な国民ではないのに、明らかに軍事演習を見るのは大好きだった。次に(蒸気)機関を指導させると、彼らは質問したり批評したりして、日本の上流階級の通常の知識を披瀝した」

 

「どの階級の人々も極めて礼儀正しく、外国人に対する好奇心は旺盛だが、決して不快にでしゃばることはない。下層階級の人々は明らかに上層階級の人々を非常に恐れていて、上層階級の面前では、彼ら将来の振る舞いよりもずっと控え目な態度をとる」

 

「日本社会には、他のすべての東洋の国民にはない優れた特質がある。それは女性が伴侶として認められ、単なる奴隷として扱われてはいないことである。日本人の母、妻、娘は中国とは違い、単なる動産でも家内奴隷でもなく、トルコのハーレムに買われた女性のような、気まぐれな快楽の対象でもない。

 

一夫多妻の制度がないという事実は、日本人があらゆる東洋諸国民の中で最も道徳的で洗練された国民であるという、優れた特性を示す顕著な特徴である。この恥ずべき習慣がないことは、女性の優位性ばかりでなく、家庭道徳が広く普及しているという当然の結果にも現れている。

 

若い娘は格好が良くて美しく、立ち振る舞いも活発で自主的である。これは女性が比較的高い敬意を払われていることから生じる品位の自覚からきている」

 

 

M・C・ペリー、F・L・ホークス著・編集

「ペリー提督日本遠征記 上・下」

 

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