第二次世界大戦が終わった後でも日本の領土に侵略して来たり、その時に奪った北方領土はいつまで経っても返してくれないロシアですが、そんなロシアも間違いなく親日であると言えると思います。
それは日露戦争で、戦争という非常事態にもかかわらずに、ロシア人が体験した日本人の態度や姿勢にも基づいています。
北方領土を返さないので、政治的に親日とは言えないという主張もありますので、親日という言葉が当てはまらなければ、それは日本ファンと言えると思います。
あのプーチンさん自身が柔道でも空手でも有段者であり、「柔道、我が人生」という本まで出版しているほどの熱の入りようです。
信頼性が世界一の日本の電気製品や、セーラームーンなどのアニメもロシア人に大人気です。
日本に住む日本ファンロシア人も多く、その中の一部の人たちは、ユーチューバーとしても日本の良さを発信しています。
ところで、ペリーの黒船により、日本が開国させられた頃、1954年11月4日、プチャーチンが率いるロシアの使節団が乗るディアナ号も日本に来ていました。
運悪く、丁度その時に、安政東海地震が起こり、大きな津波も起こりました。
その時の当事者の証言が残っています。
「まるで渦巻きの中に投げ込まれた木片のように、艦は回転し、引き裂かれ、打ち叩かれた。索具は音を立てて裂け、舷側は切れ、船体は右に左に大きく傾いた。
乗組員は数隻ものカッター(大型船に複数搭載されるボート)を海面に下ろして水平が乗り込み、ディアナ号に結びつけた引綱で海岸に向かって曳航しようと試みましたが、逆巻く波にあおられてどうにもなりませんでした。
「波は絶え間なく次々とカッターを翻弄し、逆巻く激しい波が彼らの姿を私たちの視野からさえぎった。 沈没だ! 私たちは恐怖と絶望に駆られて叫んだ」
その時です。乗組員たちが、浜に集まった数多くの村人たちの姿を目にしたのは…
「この目が信じられぬほどの出来事だった。私たちの運命を見守るべく、早朝から千人もの日本の男女が押しかけてきたのである…
日本人たちは、私たちがカッターを繰り出した意味をいち早く察して、激しい波がカッターを岸へ放り出すに違いないと見てとり、縄に身体を結びつけて身構えていた。
そしてカッターが岸へ着くや否やそれを捉え、潮の引く勢いで沖に奪われぬようにしっかりと支えてくれたのだ」
多くの村人が、自分の身をかけて立ち向かった救援活動によって、海岸とディアナ号との間に命のロープがつながったのです。
ディアナ号自体を引き寄せることはできなくても、この命綱を頼りにボートやいかだを組んで波間を陸に進むことが出来ました。
最後にディアナ号を離れたプチャーチン指揮官も無事に海岸に辿り着き、500人ほどの乗員全員が無事に救出されました。
村の人たちの救援活動はそれだけで終わったわけではありませんでした。
「ある人々は大急ぎで囲いの納屋と日除けを作ってくれて、私たちが悪天を避けられるようにしてくれた。また別の人々は上等のござや敷物、毛布、綿入れの着物、いろいろな履物、米、酒、みかん、魚、卵を持って来てくれた。何人かの日本人が目の前で上着を脱ぎ、私たちの仲間のすっかり冷え込んだ震えている水平たちに与えたのは驚くべきことであった」
当時の戸田村は戸数僅か500戸、人口約2千500人ほどの漁村でしたが、そこに約500人のロシア人がいきなり現れたのですから大変でした。
それでもいくつかの寺や、急遽作った長屋4棟をとりあえずの住まいに提供しました。
そしてその後は幕府も正式に応援して、周りから造船技術者、船大工、作業員などを集めて、沈没してしまったディアナ号に代わる帰国のための船の造船に取り掛かりました。
翌年の3月には帰国の為の船も出来上がり、ロシア人一行は無事に帰国することが出来ました。
「善良な、誠に善良な、博愛の心に満ちた民衆よ! この善男善女に永遠に幸あれ。末長く暮らし、そして銘記されよ。5百人もの異国の民を救った功績は、まさしく日本人諸氏のものであることを! あなた方のおかげで只今生きながらえている私たちは、1855年1月4日(ロシア暦)の出来事を肝に銘じて忘れないであろう」
この戸田村の恩義を忘れられないロシア側は、1887年5月、プチャーチンの娘でロシア皇后付名誉女官、伯爵オルガ・プチャーチンが感謝のために戸田村を訪れています。彼女は1890年に死去しますが、その遺言により遺産の一部が戸田村に届けられて窮民救助費に当てられました。
「あの国」はなぜ日本が好きなのか「ニッポン再発見」倶楽部
占部賢志著「美しい日本人の物語」