メキシコ

海難事故がきっかけで、国同士の友好関係ができたと言えばトルコがよく知られていますが、トルコ以外にメキシコとも似たようなケースがありました。

 

時は1609年、フィリピン総督代理のロドリゴ・デ・ビベロが指揮するスペイン船「サン・フランシスコ号」などの3隻が、フィリピンのルソンからメキシコに戻る途中、上総、岩和田の田尻海岸沖(現千葉県御宿)で座礁して大破してしまいました。

 

 

乗員59人が溺死して、海岸に漂着した317人が地元の住民によって救助されました。

 

海難事故のことを聞いた大多喜藩では、ビベロ一行の斬首も検討されましたが、藩主の本田忠朝は一行に衣類や刀類などを与えて保護し、岩和田の村民たちに手厚くもてなすように指示しました。

 

当時は大御所となっていた家康が海外貿易を望んでいると知っていた本田忠朝は、2代将軍徳川秀忠に早馬を走らせて指示を仰ぎました。

 

知らせを聞いた徳川秀忠は、ビベロ一行を家康に合わせるべく駿府に招待しました。一行は、駿府に発つ時の別れの宴で、岩和田の人たちに厚くお礼をしたそうです。

 

駿府で一行と対面した家康は彼らを厚遇して、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が作った帰還用の船まで用意してメキシコに送り届けました。

 

メキシコ側は日本の対応に感謝の意を表し、返礼大使を日本に派遣して日本とメキシコの交流が始まりました。

 

伊達政宗の命を受けて旅立った支倉常長率いる慶長遣欧使節団も、この後すぐにメキシコ経由でヨーロッパに向かいました。

 

その後に両国間の国交は、日本の鎖国により途切れましたが、1874年の「130年に一度の世紀のイベント」で再開されました。

 

そのイベントとは、太陽、地球、金星が一直線に並ぶ「金星の日(太陽)面経過」という極めて珍しい天体現象で、メキシコをはじめ多数の国々が観測可能な日本に観測隊を派遣してきました。

 

日本がメキシコの観測隊を手厚く支援すると、コバルビアス隊長はとても感激してメキシコ政府に日本との国交樹立を強く進言しました。

 

そして1888年、日本にとってはアジア以外の国とは初となる、「日墨修好通商条約」が結ばれました。

 

1897年には、明治政府で外務大臣を務めていた榎本武揚が、大規模なメキシコ移民政策を実施して、日本初の組織的なラテンアメリカ移住となる、多くの日本人をメキシコに移住させました。

 

現在メキシコに住んでいる日系人の多くが当時の移民の子孫だそうです。

 

 

「あの国」はなぜ日本が好きなのか「ニッポン再発見」倶楽部

 

 

 

堀口九蔓一

堀口九蔓一(くまいち)は1899年にブラジルの公使に赴任しましたが、日本政府からの要請で1903年12月、日露戦争の直前に、軍艦を2隻購入すべくアルゼンチンと交渉。

 

海軍の軍備を増強しなければロシアに負けてしまうと焦っていた日本が、イタリアの造船所で作られて完成したばかりのアルゼンチンの軍艦、モレノ、リヴァダヴィサの2隻を購入しようと目論みました。

 

日本はその2隻を無事に購入できて、それぞれ日進、春日として日本海軍の軍艦にしました。これら

 

その2隻の軍艦は、ロシアも購入を狙っていましたが、同盟国であるイギリスの仲介と堀口の交渉によって日本が購入できました。

 

その後、メキシコで臨時公使をしている際には、1913年の軍事クーデターでフランシスコ・マデロ大統領を打倒するクーデターが勃発。

 

鎮圧を任されたウェルタ将軍がクーデター側に寝返ってマデロ大統領を殺害し、自分が独裁大統領に就きました。

 

身の危険を感じたマデロ夫人と子どもたちは、ロシア戦争での日本の毅然とした態度と強さを知っていたので、治外法権のある日本公館を選んで逃げ込みました。

 

当時はまだ治外法権の定義、認識がしっかりしていなかったため、クーデター軍は日本公館に押し寄せました。

 

その時に堀口は、入り口で日章旗を背負い、「大統領夫人と子どもたちを殺したいのなら、その前に私を殺せ! そしてこの日章旗を踏みつけて乱入するがよい。

 

その代わりに日本は絶対に君たちを許さない! その覚悟でやれ!」と言ってクーデター軍はひるみ、大統領夫人と子どもたちは襲われずに済みました。

 

その後もまだ安心できなかった堀口は、ウェルダ大統領に直談判で詰め寄りました。

 

「『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず(追いつめられた鳥が懐の中に入っては、いくら猟師でも殺すことはできない。 人が困窮して救いを求めて来れば、助けるのが人情であるということ)』という言葉が日本にはあるが、メキシコではどうなのか!」 と。

 

そのためにマデロ元大統領夫人と子どもたちは無事に船で国外に逃げられることになりましたが、堀口はその時も身体を張って現場まで約束が守られるかどうかを確認に行きました。

 

2015年、そのことが称えられて、メキシコで日本の国会にあたる建物の栄誉の壁に、メキシコ人以外で初の外国人の名前である堀口九蔓一の名が感謝を込められて刻み込まれました。

 

 

 

 

 

駐日メキシコ大使、マヌエル・アルバレス

 

「メキシコ人は日本人びいきですよ。メキシコオリンピックの時も、メキシコ人は必ず日本人チームを応援していた。他の外国人がびっくりしていたほどですよ」

 

「歴史的なつながりもあるでしょうが、メキシコ人の中に自然に生まれた感情としか言いようがないですね。

 

二千年前のマヤ文化の王様の像からとったこのお面(と大使執務室の像を指差し)や、土着のメキシコ人と言われるメキシコの最も偉大な大統領、ベニト・ファレスの肖像画(と壁の絵を指差し)を見ても、顔は日本人そっくりでしょう。

 

民族の流れの源が同じだったということでもあるのでしょうかね」

 

 

朝日新聞編集委員室編「日本と私・駐日外人50人が語るニッポン(1977年)」

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