世界で貢献・活躍した日本人

華岡 青洲 (はなおか せいしゅう)
(1760年~1835年) 江戸時代の外科医
東洋医学と、オランダ式外科医学を学び、手術での患者の痛みを和らげるために世界で始めて全身麻酔を開発。乳がん手術を世界で始めて成功させる。
 
ただし当時はまだ麻酔の効果、副作用等に関する知識と熟練度が未熟だったために、数々の動物実験の成功後、人体実験でモルモットとなる存在が見つからず、ついにその実験台となった母を亡くし、妻は失明する。そしてその後、麻酔は世界中に広まる。

 

 

北里柴三郎 (1853-1931) 医学者・細菌学者、従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士。
私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。

「日本の細菌学の父」として知られ、門下生からはドンネル先生との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた。 

出典: Wikipedia

 

「医者の使命は病気を予防することにある」 と確信し、予防医学を生涯の仕事とする。ドイツに留学し、ロベルトコッホインスティテュートで細菌の研究結果を次々に発表。中でも破傷風菌だけを取り出して培養する方法の確立と、血清を使った血清療法の発見は医学の歴史を変える。


出典: MOVE人体のふしぎ 講談社

 

  

屋井 先蔵(やい さきぞう) 1864年1月13日-1927年6月1日
電池の歴史は、1800年に発明されたボルタ電池から始まっています。その後、1888年に、ドイツのカール・ガスナーが乾電池を発明してから、飛躍的に電池の使い勝手が良くなりました。それまでの電池は、電解質に液体を使用し、持ち運びに不便だったので、ガスナーが液体を石膏の粉末に混ぜることで液体がこぼれないように改良しました。そのガスナーより先の1885年に、屋井先蔵が独学で乾電池を開発し、名づけの親でもあるようです。

 

出典: ニュートン2015年4月号

 

 

私たちの生活に欠かせない乾電池。実は長岡の先人が発明したものです。電気・電子の分野で社会や産業の発展に貢献した歴史的偉業を表彰する「米国電気電子学会(IEEE(アイトリプルイー))マイルストーン賞」。長岡出身で乾電池の発明者・屋井先蔵の功績が認められ、この賞を受賞しました。

 

IEEEは、アメリカに本部を置く電気・電子技術者による世界最大の学会で、学会員は世界190カ国以上に40万人超。世界中の電子、通信、電力、バイオなどの分野で指導的な役割を担っています。

 

マイルストーン賞は1983年に創設。優れた技術成果に光を当てるとともに、それを生み出した技術者に対する社会の理解と評価を高めることを目的としています。これまでに約140件が選定され、日本では富士山頂レーダー、電卓など18件が選ばれています。

 

今回は、日本の電池産業の誕生と成長への貢献が認められたもの。先蔵が起こした合資会社屋井乾電池と、株式会社ジーエス・ユアサコーポレーション、パナソニック株式会社が同時受賞しました。

 

出展: 長岡市公式ウェブサイト

 

 

 

木村 栄(きむら ひさし、旧字体:榮、1870年10月4日(明治3年9月10日)- 1943年(昭和18年)9月26日)は、日本の天文学者、理学博士。


1902年(明治35年)に緯度変化のZ項を発見した。

出典: Wikipedia

 

 

田原 淳 (たはら すなお 1873-1952)

1901年東京帝国大学医学部を卒業。1903年に私費でドイツに留学し、マールブルク大学の病理学教室でルードヴィッヒ・アショフ(Ludwig Aschoff)に師事。


哺乳類の心臓筋肉について研究を行い、心臓刺激伝達系に重要な役目を持つ(田原結節、アショフ=田原結節)を発見。1905年、後に「田原結節」や「田原・アショフ結節」と呼ばれるようになる「房室結節」を発見し、心臓の刺激伝導系の存在を明らかにした。1906年その研究結果を『哺乳動物の心臓における刺激伝導系統』と題して発表した。この研究によって1914年帝国学士院恩賜賞を受賞。これにより100年以上、研究者の間で論争となっていたトーマス・ウイリスに始まる心臓拍動の神経原説とアルブレヒト・フォン・ハラーに始まる筋原説の対立に筋原説の勝利という形で終わらせた。

出典: Wikipedia

 

心臓病の患者に使われるペースメーカーは、現在日本で年間4万件近くも埋め込み手術が行われています。田原淳が発見したのは、ペースメーカー開発のきっかけとなる、心臓が動く仕組み「刺激伝導系」です。

出典:MOVE人体のふしぎ 講談社

 

   

鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年4月7日 - 1943年9月20日)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を脚気の予防に使えることを発見した事で有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。帝国学士院会員。文化勲章受章者。鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年4月7日 - 1943年9月20日)は、戦前の日本の農芸化学者。米糠を脚気の予防に使えることを発見した事で有名。勲等は勲一等瑞宝章。東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。帝国学士院会員。文化勲章受章者。

出典: Wikipedia

 

 

野口 英世(のぐち ひでよ、1876年(明治9年)11月9日 - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の細菌学者。福島県出身。
猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了後、ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学の研究に主に従事し、黄熱病や梅毒等の研究で知られる。数々の論文を発表し、多くの人命を救う成果を残してノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年5月21日、ガーナのアクラで51歳で死去。

参考: Wikipedia

 

 

野口英世は、黄熱病が流行していたエクアドルで黄熱病の病原体の特定をし、その結果をもとに野口ワクチンを開発。 当時南米で蔓延していた黄熱病を収束させ、数多くの人命を救いました。

 

野口は米国のロックフェラー医学研究所に在籍中の1911年に、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したと発表したことで一躍、脚光を浴びる。 野口は1913年には小児麻痺(ポリオ)の病原体を発見、狂犬病の病原体を発見したとそれぞれ発表する。 これらの発見もまた素晴らしい成果として称賛される。

 

野口は借金を繰り返して遊郭などに出入りする悪癖があり、酒好き女好きな浪費家であった。野口英世は改名後の名で、元は野口精作。偶然にも、野々口精作という人物が主人公で、野口の人生とそっくりな物語があって最後は自殺してしまうので、君悪がって改名。改名は簡単ではなく、精作という名前の子どもを見つけて無理やり養子にしたりして改名を成功させたような一面もある。

 

 

 

志賀 潔

赤痢菌の発見者であり、化学療法の先駆者

1870年 12月18日、宮城県仙台市に生まれる。

1883年 母の生家志賀家の養子となり、名を潔と改める。志賀家は代々、仙台藩伊達家の藩医の家系であった。

1887年 東京へ遊学しドイツ語を学ぶ。1892 年東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学。

1896年 伝染病研究所に入り、北里柴三郎に師事。

1897年 赤痢菌に関する最初の研究を発表。

1901年 ドイツへ留学し、エールリッヒに師事。1904 年にはエールリッヒと共著で「トリパノゾーマの化学療法」を発表。

1911年 再び渡欧し、エールリッヒに師事。2 年間、結核の化学療法を研究。

1914年 伝染病研究所を北里柴三郎と共に辞め、翌年北里研究所開所にあたり、第一部長となる。

1920年 朝鮮総督府医院長として朝鮮に渡る。その後11 年間京城に留まり医学教育、医事行政に深く関わる。

1931年 帰国し、北里研究所顧問となる。75 歳まで同研究所で細菌学の研究を続ける。

1955年 1月25日、老衰のため死去(85歳)

赤痢菌の発見

赤痢菌写真

 明治30 年(1897 年)6月、関東を中心として全国的に赤痢が大流行しました。総患者数は9 万人とも言われ、死亡率は25%、より良い医療環境にあったと考えられる東京だけ見ても、死者は2000人を超えました。

 

伝染病研究所に入りたての志賀潔は北里柴三郎から直接研究の手解きを受け、赤痢の病原体探索を指示されます。志賀はすぐに下宿を引き払い、研究室の片隅に自分の寝床を作り研究室に篭城する覚悟で取り組みました。

 

患者から集まる検体の全てを培養、分離、染色、検鏡して網羅的に調べ、ようやくある桿菌が病原体らしいとの結果に行き着きますが、動物では感受性が異なるらしく赤痢様の症状を示しません。断定できない焦燥感にかられていたある日、図書館の新着図書でビダールの腸チフス血清凝集反応の論文を目にします。

 

赤痢菌への応用をひらめいた志賀は早速条件検討を開始し、約1 ヶ月後にはある桿菌が赤痢患者の血清とのみ特異的に反応を示す事を突き止めました。そして赤痢流行の兆しから半年後の12 月、日本細菌学雑誌第一号で赤痢菌発見の報告に至りました。1880 年代より結核、コレラ、腸チフスなどの重篤感染症の原因菌が次々明らかになる中、正体がつかめなかった赤痢の根本原因が志賀によってようやく判明しました。

 

 ところで、赤痢菌の正式名Shigella が志賀の名前に由来することは、つとに知られています

化学療法の先駆者 留学先のドイツで師事したエールリッヒは、長年の構想である「病原体にのみ特異的に作用する物質を合成化学的に創出する」研究に着手しようとしていました。対象の病原体には、細菌より複雑な構造を持つため標的が多いことと、血清療法の効果が見込めないことが分かっていたトリパノゾーマが選ばれました。

 

助手に抜擢された志賀は、忍耐と勤勉さをもって毎日何百というマウスの尾から血液を採取し続ける傍ら、500 以上のアニリン色素誘導体を試し、最初の有効薬が見つかるまでに1 年半近くを要しました。見つかった有効薬はトリパンロートと名づけられ、1904年の春にエールリッヒ、志賀の共著としてベルリン臨床週報十三、及び十四号で報告されました。

 

報告の冒頭にエールリッヒは「志賀と私とは遂にトリパンロートを得ることができた」と述べましたが、それに対して志賀は「短時間の助手に過ぎない私の労をねぎらって下され、おのずから頭の下がる思いである」と後の回顧録に記載し、その姿勢にはエールリッヒへの尊敬の念と、謙虚な姿勢がうかがえます。

 

素顔

 志賀は自身の研究生活や恩師、仲間について多くの学術誌に寄稿しています。そしてそれらの中で、自身の研究生活は非常に幸運であったと述べています。赤痢菌の発見時の幸運として、まず北里柴三郎から直接指導を得られたこと、その当時赤痢は欧米では流行しておらず、特に発見した年は東京を中心に大流行していたこと。

 

また、通常であれば赤痢の原因菌探索のテーマは先輩に行くのが順序でしたが、たまたまその先輩は留学する事が決まっており、志賀に指示がきたため発見することができた、先輩に指示が行っていたら間違いなく先輩が発見していただろうとも述べています。これらの幸運に加えて器用で粘り強く、研究する事が面白くてたまらなかったという探究心を持ち合わせていたことが、偉大な発見に繋がったのであろうと考えられます。

 

 赤痢菌の発見で良い思いをしたことがあるという思い出話をひとつ。インド南部の都市マイソールがまだマイソール王国だった頃、防疫施設の助言をするため国賓として志賀は招かれ、王宮に宿泊する事になりました。豪華でありながら瀟洒なつくりの寝室には、天蓋とレースの掛かったベッドが置かれていました。

 

王様用のベッドに横になり悦に入った姿は普段の真面目な顔とは異なり、純粋に喜ぶ顔をしていたに違いありません。さて、研究者としての志賀は指導者にも恵まれ幸せであったかも知れませんが、最愛の妻に先立たれただけでなく、戦争で長男、そして三男を結核で失い、特に三男の死にあたっては忸怩たる思いがあったであろうことを容易に想像できます。

 

日本BD ➡︎ https://www.bdj.co.jp/safety/articles/ignazzo/hkdqj200000u17z1.html

 

参考文献:「志賀 潔 或る細菌学者の回想」日本図書センター 志賀潔著

(文責:日本BD 川口恵子)

 

 

秦佐八郎

梅毒の特効薬サルバルサンを発見

足跡

1873年 3月23日 島根県美濃郡都茂村の山根道恭の八男として生まれる。

1887年 都茂村の医家・秦徳太の養子となる。

1897年 岡山県立病院助手となって荒木寅三郎博士に師事。

1898年 大日本私立衛生会経営の伝染病研究所へ入所、ペスト研究に着手。

1907年 ドイツ留学し、コッホ研究所に入所。

1910年 エールリッヒ博士とともにサルバルサンを発見。

1920年 慶應義塾大学医学部教授に就任。

1938年 11月22日 脳軟化症のため死去、享年65歳。

岡山県立病院から始まる医家の道

 細菌学者・秦佐八郎は、1873年、西郷隆盛に同調する政府高官や軍人など約600名が辞職した“明治6年の政変”で内戦勃発の不安漂う時代に、島根県美濃郡都茂村(現在の益田市美都町)の酒造家で豪農の山根家に8男として生まれました。

 

 素封家とはいえ、山根家では多くの子らに高等教育を施すのは難しく、佐八郎は14歳で医家・秦徳太の養子に入ります。代々の漢方医の秦家は学力に秀でた佐八郎を進学させる約束で迎えました。佐八郎は18歳になると中国山脈を越えた岡山の第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部)に入学し、勉学に励みます。1895年に養父の徳太が他界し、佐八郎は22歳で徳太の長女チヨと結婚、11月には同医学部を卒業し、1年間の兵役を経て、岡山県立病院の助手になります。

 

そこで、後に鼠咬症スピロヘーターを分離、命名した荒木寅三郎教授のもとで医化学を学びます。これが佐八郎の医家としての出発となりました。当時、医学の最先端はコッホやパスツールに代表される細菌学で、北里柴三郎はそのコッホのもとで破傷風の血清療法を発明、世界的な名声を博し、東京に伝染病研究所を開設しました。

 

荒木教授は佐八郎を北里に推薦し、1898年、佐八郎は東京の伝染病研究所に入所します。佐八郎はそこで細菌学の研究に励み、翌年、わが国で初めてペストが流行した際には和歌山県に赴き、防疫に当たります。1904年に日露戦争が勃発、翌年、終結を迎えると広島の宇品港外・似島検疫所において帰還兵の防疫を行います。この時に佐八郎が考案した真空ホルマリン消毒法は、陸軍式消毒法として広くドイツなど諸外国でも使用されました。

 

エールリッヒのもとで特効薬“サルバルサン”を発見

 1907年に北里の支援でベルリンに留学した佐八郎は、ロベルト・コッホ研究所で免疫を研究し、その後、モアビット市立病院に転じていたところ、当時、化学療法の先駆者だったパウル・エールリッヒ博士が病原微生物の研究者を探していて、ベルリンの万国衛生学会の席で佐八郎が危険極まりないペスト菌を8年も研究していたことを聞くに及び、自らが所長を務めるフランクフルトの国立実験治療研究所に迎え入れます。

 

エールリッヒは、微生物には親和性を示すが人体細胞には親和性のない毒物があり、そのように微生物を殺し、人体に無害な“魔法の弾丸” を開発しようと、当時、発見されて間もない梅毒のスペロヘーター・パリーダ(学名・トレポネマ・パリドウム)にねらいを定めます。

 

 エールリッヒのもとで佐八郎は梅毒のスペロヘーターを使って実験を重ね、イタリアの大学にあったウサギの陰嚢で継代できる梅毒の種で実験を行います。そして、606 番目の砒素化合物をウサギの耳介静脈に注射すると陰嚢の潰瘍も治りかけ、梅毒のスペロヘーターが消えました。

 

この動物実験で成果を上げた新薬をヒトで使う場合の最適容量を調べる必要が生じますが、これにはエーリッヒ研究所の助手2人が淡黄色の粉末結晶を水に溶かし、自らの身体に注射して、効果を確かめました。これが製剤番号606号のジオキシ・ジアミド・アルゼノベンゾール、通称“ サルバルサン(Salvarsan)”と呼ばれる梅毒の特効薬です。その名称は、救済(salvation) と砒素(arsenic)に因んで名づけられました。

 

 この輝かしい成果をエールリッヒはウィスバーデンの学会において秦佐八郎との連名で発表します。しかし、砒素薬剤のために副作用が強く、もう少し副作用のない新薬を目指して改良を重ね、914番目の試薬“ネオ・サルバルサン” の製造に成功します。この製剤は1943年ペニシリンがこれに取って代わるまで、梅毒に苦しむ世界中の患者に福音をもたらしました。

 

同種のスペロヘーターで起こる皮膚病にも効果絶大

 佐八郎は1910年8月、帰国しますが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツからサルバルサンの輸入が途絶えると鈴木梅太郎らが合成したサルバルサンの生物学的性能検査を担当、これはドイツ製より品質に優れ、ドイツから輸入できない諸外国も日本に期待して、積極的に日本製を導入するようになりました。

 

また、サルバルサンは梅毒と同種のスペロヘーターによって発症する熱帯地方の皮膚病のフランベジアにも効果が絶大でした。後年、佐八郎がジャワで開催された極東熱帯病学会の会期中、フランベジアが風土病となっていたバンデグランという町を訪れると町民から大歓迎を受けます。サルバルサンによる治療でフランベジアが一掃され、佐八郎は町を救った恩人と崇められ、秦の来訪を記念して町をハタ町と呼んだといいます。

 

 1914年に伝染病研究所が内務省から文部省に移管され、それに怒った北里が辞任して北里研究所を新設すると、佐八郎もそこに移ります。そして、1917年、慶應義塾大学に医学部が新設されたため佐八郎は教授に迎えられ、細菌学と免疫学を教えます。以後、在位20年、病没の年まで勤め上げました。

(文責:長 茂)

 

日本BD ➡︎ https://www.bdj.co.jp/safety/articles/ignazzo/hkdqj200000u17z1.html

 

参考文献:秦八千代著『秦佐八郎傳』、鈴木昶著『日本医家列伝』、

福田眞人・鈴木則子編著『日本梅毒史の研究』思文閣出版、

モートン・マイヤーズ著『セレンディピティと近代医学』中央公論新社

山中 伸弥 (やまなか しんや 1962-)

整形外科医を目指していたものの、不器用で、「やまなか」 ではなく、「じゃまなか」 とどなられていた。重症のリューマチ患者を見て難病治療の研究を始め、あらゆる細胞に分化する能力を持つ人口多能性幹細胞「iPS細胞」 を世界で初めて作製することに成功。日本人として1人目のノーベル生理学・医学賞受賞。


出典:MOVE人体のふしぎ 講談社

   

つづく…

Druckversion | Sitemap
もっと良く知ろう、本当の日本を 当時のGHQ 政策(洗脳) により、本当の日本・日本人のことを知らない日本人、そして世界の人々が多過ぎる... もし本当の日本・日本人を知ると、日本人は誇りを持てる(そうさせないためのGHQ 政策でした。日本が強すぎました...)... 誇りを持てば自身につながり、襟を正せる...  自殺者80人以上/1日、親殺し、子殺しは異常です。 襟を正すと修身(道徳) の大切さが理解できるようになる... 人間が生きていくためのバックボーンである修身が重んじられると、日本が良くなる... 世界に影響する日本が良くなると、「和を以って尊しと為す」 が世界に広まる... 「和を以って尊しと為す」 が世界に広まると、個人主義が減って世界平和につながる...