台湾で貢献・活躍した日本人

根本博陸軍中将

「台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」

 

満州に隣接する内蒙古の日本軍司令官・根本博陸軍中将は、終戦直後、在留邦人4万、配下の軍人35万を従えて、本国からの武装解除の命にあえて反してソ連軍と戦いながら、北京・天津を経由して日本への帰還を無事果たす。道中、助力してくれたのは蒋介石の国民党軍だった。

 

1949年、国共内戦に敗れた国民党軍は台湾に渡り、押し寄せる共産党軍と廈門・金門島を挟んで対峙するに至る。

 

まさに破滅の淵に、根本博は少数の仲間とともに粗末な舟で危険を冒して渡海して参戦する。受けた恩義にただ報いんとするためである。

 

もし、GHQ占領時の1949年に、家族には釣りに行くと告げて釣り竿一本携えて苦難の密航までして台湾援助に駆けつけた根本博の「戦神」と称えられた軍事貢献がなかったら、台湾は中共に占領され、戦後の日本及び北東アジアの運命も大きく変わっていたはずで、正に、根本博は戦後の日本と台湾の救世主の一人だったと思われる。 

 

そして、これにより中国大陸のごく傍にある金門島が、何故今も台湾領土であるかの理由が理解できた。

 

戦神と呼ばれた根本博の活躍により、10月24日からの古寧頭の戦いで共産党軍およそ3万は壊滅し、共産党の台湾侵攻は挫折した。しかし、この激戦に旧日本軍将校が参与していたことはタブーとなり、いまや忘れ去られようとしている。

 

門田 隆将

この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡

角川文庫

 

 

 

八田興一(はったよいち)
台湾の教科書にも出てくる、台湾で最も良く知られている日本人の1人八田興一です。八田興一は、当時食べるものに飢えていた台湾で、アジア最大規模のダムを作って農作地を開拓するプロジェクトを立ち上げました。
 
その農地の広さは東京23区の倍以上もあり、大変に困難な工事となり、事故で50人もの死者が出て工事中止も危ぶまれました。中止を考えた八田興一を思いとどまらせたのは、飢えを何とかしてもらいたいと考えた地元の人たちです。
 
八田興一は、工事人に対して家族のように接し、日本人の多くの銅像が戦時中に取り壊されるのに対して、八田興一の銅像のみは地元の人たちが隠し守り、戦後に再び設置されたので、今でも残っている数少ない日本人の銅像です。
 
陳水扁、台湾総裁:
「八田興一氏は、資金的困難と憂慮を乗り越え、ついにアジア最大のダムを完成させた。灌漑、洪水防止システムを計画、大計画による3年輪作の給水を推し進め、農耕地の生産能力を大幅に拡大させるなど、嘉南平原の豊かで新しい一頁を開いた。大甲渓の電源開発計画にも協力され、土地改良の基本方案を研究、計画し、遠大なその計画は人々に恩恵をもたらした」
 
「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫
「日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか」黄文雄
 

八田興一に関する詳しい情報および、
台南にある八田興一記念公園について - 台北ナビ

堀内次雄 医師、台湾医学専門学校校長
50年にわたり医師育成、医療に生涯を捧げた台湾医学会の恩師。台湾人の平均寿命は30歳から一挙に60歳まで延びた。脅威の大変貌の時代だった。堀内はその時代を生き抜いた貴重な歴史の証人である。
 
台北帝大教授で、後に大阪大学名誉教授になった森下薫は「台湾の医学史の中で終始主役を演じていた堀内先生を取り上げなければ、台湾医学史の記述は成り立たない」と絶賛している。
 
堀内校長は仕事熱心で東奔西走しているにもかかわらず、あの時代の軍人と同じように貧乏暮しをしていた。その様子を見るにみかねた台湾医学界は、恩師のために戦時中に金を集めた。そしてその金で1941年に住宅一軒を購入して贈与したのである。しかし、それも戦後になると注進してきた国民党政府に「敵の資産」という名目で没収されてしまった。
 

 「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

台北ナビ

19世紀後半の台湾には、「十去六死三留一回頭」という「渡台悲歌」がある。外部から台湾という「荒無の島」に渡ったら、10人のうち6人が死に、3人だけ生き残って1人は戻っていくという意味の言葉である。その地を人が住めるように変えたのが、近代日本の医療衛生の改善策であった。

 

伊沢修二 台湾初代学務部長、日本近代音楽の育ての親
明治維新政府が師範学校制度調査のために文部省からアメリカに送った16名の留学生の一人。台湾で師範学校を設立、台湾人への日本語教育、日本人への台湾語教育を促進し、台湾教育の基礎を築いた名教育家。
 

「伊沢修二」 上沼八郎著 吉川弘文館
 「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

 

 

 

広枝音右衛門警部
苗栗県獅頭山の権化堂で神として祀られている日本人。1930年に台湾の新竹に巡査として配属され、第2次世界大戦の戦線拡大で、台湾人2千人による海軍巡査隊が結成されて、広枝音右衛門が総指揮官としてフィリピンのマニラに遠征。
 
厳しくも優しい性格で率先垂範して隊を指揮して慕われる。戦況が悪くなり、司令部から玉砕覚悟の総攻撃命令が出される。そこで広枝は米軍と交渉し、台湾人の生命の安全保証を取り付け、隊員に対して、”祖国台湾には君達の帰りを待っている家族がいる。ここで犬死することはない。私は内地人(日本人)だ。責任は全て私が取る。” と訓示した。
 
2千人の部下たちは、声もなくすすり泣いたという。広枝にも家族があったが、彼はただひとり敢然と自決し、戦後神として祀られた。
 

”日本の警察、そのユニークな交番活動” デイビッド・H・ベイリー著
新田勇・兼元俊徳・平沢勝栄訳、サイマル出版
”新・日本の警察、日本の治安はなぜ良いのか”
同著者、金重凱之・柳沢訳昊
”日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか” 黄文雄

 


森川清治郎巡査
台湾南部にある嘉義県東石郷副瀬村の富安宮に、1861年生まれ、横浜出身の森川清治郎巡査が、「義愛公」という神として祀られています。1897年に巡査となって台湾各地で勤務することになり、1900年に現在祀られている副瀬村に赴任、その直前に妻子を日本から招きました。
 
副瀬村は痩せた土地と浅瀬の海の厳しい生活環境にあり、村民は半農半漁でようやく何とか食べていけるという状況でした。当時の台湾全土がそうであったように副瀬村もまた、マラリア・コレラ・ペストなどの伝染病が猛威をふるう衛生環境の悪さや、匪賊が頻繁に出没するという治安の悪さにも悩まされていました。

森川巡査はこれを滅私奉公の精神で着実に打開して行きました。例えば、富安宮内に寺小屋式の私塾を開き、自費で教師を雇い、時には自らも教鞭を取りました。息子も台湾人と同じく机を並べさせました。優秀者には自費で紙・筆・墨などを贈呈し、息子が受賞した時は除外してその次の者を賞しました。

家の周りに排水溝を掘らせて汚水を流させました。各家庭における飲食物の扱い方などについても、こと懇切丁寧に細かく教えました。さらには農地の改良や農耕技術の改善についても、自ら鍬を持って率先垂範で指導しました。勉学に励む子供だけでなく、良く働く優秀な大人にも自費で農機具を進呈するなどして奨励しました。

本業の警察官の仕事も、いわゆる監視ではなく、慈愛に満ちた激励でした。病める者には薬を、貧しい者には物品を与え、落ち込む者にはねぎらいの言葉をかけ、村民の生活苦に心から同情し労わったのです。

貧しい民への施しや頑張る者への奨励など惜しみなく自腹を切って出費する一方で、自らの身辺は清貧を貫いていた森川巡査。そのことが偲ばれる写真が残っています。1901年、巡査の同僚たちと撮影した写真です。
 
ある日、怪我をして海中で泣いている漁師を見付けた森川巡査は、海に飛び込みその漁師を救助し、そこから2キロほど離れた家まで背負い介抱しました。

その後、救助された漁師よりも森川巡査の方が大怪我をしていたことを村民たちは知り、森川巡査の献身に涙したそうです。ところが、その後、悲劇が森川巡査と副瀬村を襲います。

1901年から、台湾南部に大干ばつが発生。にもかかわらず、総督府は新たに漁業税を実施したのです。ただでさえ大干ばつで農業に大きな影響を与えていたところに、漁業にまで課税されては貧しい村民はとても生き延びていけません。

村民たちの嘆願を受けた森川巡査は、台南州東石支庁まで出向き、必死に村民の実情を訴えました。ところが、当時の東石支庁長は激怒。
この陳情を森川巡査が村民を扇動しているものと曲解して、逆に戒告処分に処してしまったのです。

森川巡査は村民に向かって沈痛な面持ちで、陳情が届かなかったこと、それどころか誤解をされて戒告処分という扱いを受け、同僚や村民にまで迷惑をかけることになってしまったことを伝え、ひたすら自らの非力を詫びました。

その2日後の朝のことです。宿舎兼派出所の西南にある慶福宮から一発の銃声が聞こえました。驚いた廟守が現場に駆け付けると森川巡査が倒れていました。森川巡査は自決したのです。

後に東石庁長から駆け付けた警部が遺品を調べると、ポケットから一枚の名刺が出て来ました。そこには「疑われては弁解の術もない。覚悟する」と書かれていたそうです。

慈父とも慕う森川巡査の悲報を聞き、村民たちは遺体にしがみついて嗚咽したそうです。享年42歳でした。森川巡査は、村民たちの手によって、村の共同墓地に埋葬されました。

この事件によ り、総督府は大騒動になりました。森川巡査の訓戒処分は取り消されました。台南州知事は警察官の鑑として森川巡査を表彰しました。そして、税金について は、査定に誤りがあったという名目で村民全員が再申告した結果、従来と同様の税額で落ち着くことになりました。

森川巡査は文字通り身を賭して、重税の苦から村民たちを守ったのです。 ……それから約20年の歳月が流れました。1923年2月5日、副瀬村の隣村で脳炎が発生します。

2月7日夜、副瀬村のある村民の夢枕に、警官の制服に身をまとい制帽をかぶった森川巡査が現れました。手には提灯を灯し、家の玄関に立って、「全村の衛生と各家庭の飲食衛生に注意するように。そうすれば村は平穏無事になるだろう」と告げて消え去ったそうです。

この村民はすぐに全村にこのことを伝え、副瀬村は脳炎の被害を防ぐことができました。村民たちは、自分たちの親や祖父母に心から尽くしてくれた森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていることに心から感謝しました。

そして、直ちに協議して森川巡査のご神体を作ることにしたのです。村民の夢枕に立った姿と同じ警官の制服、制帽姿で帯剣した威厳のある座像です。その後、これを知った森川巡査の息子ら親族により、二体の副像が寄贈されました。

「義 愛公伝」は台湾各地域にも広がりを見せ、現在、新北市新荘北巡聖安宮には「義愛公」の分霊も祀られているとのことです。死後100年以上経った今でも、副 瀬村では代々「義愛公」の遺徳が語り継がれており、富安宮に行けば、まるで本人に会ったことがあるかのように遺徳を語ってくれる人であふれているそうで す。
 

ぼやきくっきり
”日本の警察、そのユニークな交番活動” デイビッド・H・ベイリー著
新田勇・兼元俊徳・平沢勝栄訳、サイマル出版
”新・日本の警察、日本の治安はなぜ良いのか”
同著者、金重凱之・柳沢訳昊
”日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか” 黄文雄

 

 

浜野弥四郎 
東京の下水道設計の責任者として活躍した東京帝大衛生工学外国人講師兼内務省衛生局顧問技師で、浅草の凌雲閣の設計者でもある、ウィリアム・K・バートンとともに台湾に渡り、43歳でマラリアにかかって東京に戻ったバートンに代わり、台北、台中、台南など、台湾主要都市の上下水道を完成させ、ページ最下部の教科書のテキストの元となる。
 

八田興一は、浜野弥四郎の帝大の後輩で、最初は浜野の元で衛生設備の工事を行う。
「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫

 


磯永吉 農学者、作物育種学者、台北帝大教授
「日本統治時代の台湾の水稲は在来米が主で、日本から導入された稲種の栽培は、なかなか台湾では成功しなかった。磯永吉氏は野外実験観察に10数年も費やし、1千種類以上の優劣不ぞろいの台湾稲米から300余種を厳選して栽培し、それと日本の稲種を交配の上、台湾で生育可能な「蓬 莱米」を選育し、台湾の稲米の品質と生産量を大々的に向上させた。

 

彼の貢献は台湾におけるものだけではない。長期間蓄積した農業の研究開発の成果を結実さ せた英文の「亜熱帯稲米と作物の輸作」は、亜熱帯農作物のバイブルと言うことができる。1960年代、我が国が国連の食料農業機構を通じて蓬莱米をインドに贈ったことで、東南アジアでの試験栽培にも成功している」


「自由時報」2006年10月 台湾大学名誉教授、頼光隆
「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

 

 

 

 

台湾で稲のおしべとめしべを一つひとつ掛け合わせていくという、一生かかっても成功するかどうか分からない粒粒辛苦の努力を20年積み重ね、台湾内地の米不足を一挙に解消した高収穫品種、「蓬莱米(ほうらいまい)」を開発。

 

月刊誌「致知」2022年1月号、渡辺利夫

 

 

末永仁 農業技術者、台中州試験場主任
磯永吉を米改良農務技師、台中州内の農業監督、末永はその下で数千もの品種を用いて交配を行い、1925年に価値の高い「台中65号(蓬莱米)」を完成させる。

蓬莱米は、1930年には台湾米生産量を4倍以上に押し上げ、台湾で作られる全ての米の3分の1までを占めるようになり、台湾の人口増加に大きく寄与した。


「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

 


台湾の中学2年生の社会科教科書
「(総督府は)日本統治のはじめ、水道を施設して、都市住民にきれいな飲料水を供給し、都市の地下排水工事を行った」
 

「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫

 

 

 

 

「今日、我々の(台湾)社会は、国会から家族にいたるまで憎しみ合い、いがみ合い、殺伐な気が満ち溢れている。考えれば、万悪の根源は全て戦後の恨(ハン)の教育にある。願わくば、井上伊之助に学び、根から愛の教えを」

 
台湾キリスト教長老教会牧師、廬俊義
 
1911年12月以降、多くの日本人が台湾の先住民に殺される中で、自分の命も顧みずに未開の山地に伝道医として多くの台湾人の命を救いました。
 
当時の台湾では、病気を治すのは医者ではなくて巫女の仕事。そんな台湾で医療の普及に努めて多くの命を救った医師。家族の内の長女、次女、次男を風土病、疫病によって失う。
 
 
 
 
 
 
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