アメリカで貢献・活躍した日本人

アメリカ、チャーリー・チャップリンの元で貢献した日本人

 
チャーリー・チャップリンに最初は運転手として採用された高野寅市は、何でもできるということで、経理、秘書、護衛までして、チャップリンの撮影所内に豪邸を与えられて支配人にまでなった。
 
高野の働きに感激したチャップリンは、一時期17人の使用人を全て日本人にした。
 
「日本人は皆親切で正直だ。何をやるにつけ信用ができる。そのため自然に日本人が好きになった。こんな人たちを作り出している日本という国はどんな国だろう?」

チャールズ・チャップリンと言えば、昔まだ映画に音声がなかった頃の世界的なスターです。

 

そのチャップリンには当時、使用人が10数人いましたが、その中の1人に、広島生まれで高野寅市という、1900年に15歳の時に飛行家を目指して渡米し、波乱万丈な人生を送った人がいます。

 

高野さんについてチャップリン曰く…

 

「高野は何でもする。看護夫、乳母、侍者、秘書、護衛、何でもした。彼は日本人で、私のためには何でも屋だった」

 

高野さんの働きぶりに感激したチャップリンは、使用人を次々と日本人に変え、最も多い時は17人の使用人すべてが日本人でした。

 

当時のチャップリンの妻リタ・グレイに「まるで日本人の中で暮らしているようだった」と言わせています。

 

高野さんはチャップリンの遺書の中で相続人の1人に選ばれるほど絶大な信頼を得て、撮影所内に5つの寝室付きの邸宅までプレゼントされていました。

 

高野さんに長男が誕生すると、チャップリンは自ら名付けの親となって、彼のミドルネームである「スペンサー」を与えて、高野スペンサーと命名するほど、高野に親しみを感じていたそうです。

 

やがて、高野さんは「撮影所の支配人」とまで呼ばれる存在になりました。

 

高野さんは、1916年から1934年までの18年間、チャップリンを公私ともに支え続け、その間にチャップリンは『犬の生活』、『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』、『街の灯』などの傑作を生み出しました。

 

高野さんは『チャップリンの冒険』(1917年)で、運転手役で出演もしています。

 

その生涯で日本を4回訪問したチャップリンが、1932(昭和7)年の訪問時のきっかけについてのコメントが次です。

 

「日本人はみんな親切で正直だ。何をやるにつけ、信用ができる。そのため自然と日本人が好きになった。こんな人たちを作り出している日本という国は、一体どんな国だろう? 一度行ってみたいものだと思い始めた」

 

チャップリンは、ラフカディオ・ハーンの『怪談』 で日本に興味を持ち、熱心に働く高野さんに出会ったことで、ますます親日家となりました。

 

そのチャップリンの日本訪問の際に、実はチャップリン暗殺計画があったそうです。

 

時はアメリカとの開戦前で、一部の行き過ぎた青年将校たちは、有名なチャップリンを殺害すれば開戦できると考えたそうです。

 

その動きを知った高野さんは、前もって日本に行き、櫻井忠温元陸軍将校と綿密に訪日スケジュールを立てたそうです。

 

そして来日の初日、船から神戸に上陸して東京のホテルに向かう途中で皇居に立ち寄ったそうです。

 

高野さんに促されたチャップリンは車を降りて、皇居に向かって拝んで一礼しました。

 

その姿が翌日の新聞に大きく掲載されて、天皇を敬う親日家のイメージをアピールしたそうです。

 

翌日は首相官邸にて歓迎会が予定されていたそうですが、急に相撲を見に行くことで歓迎会は延期されましたが、5.15事件は正にその時に起こったのでした。

 

出展:

「チャーリー・チャップリン世界漫遊記」チャップリン著

「チャップリンの影」

「日本の世界一」

「世界を号泣させた日本人」黄文雄、徳間書店

   

エジソンの助手、岡部芳郎

エジソンのウェストオレンジ研究所勤務。「自分の子供達でさえ、私の周りからしょっちゅう金品を勝手に持ち出すのに、岡部はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけるようなことは決してしない」
 
日本人からすると当たり前のように思えることですが…)
 
 
 

 

画像は Wikipedia より

井上 建(ダニエル・ケン・イノウエ、1924年9月7日 - 2012年12月17日)元アメリカ陸軍将校、アメリカ合衆国上院議員、アメリカ合衆国上院仮議長。父は福岡県、母は広島県出身、ハワイ生まれの日系二世。日系人初の上下両院議員。

 

ハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願、その後アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦う。

 

イタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて、1945年4月21日に少尉に昇進していたイノウエが小隊を率いてドイツ軍の堅固な防衛線を攻撃した際、36メートルほどの至近距離から三挺の機関銃から射撃を受けた。

 

イノウエは腹部に銃弾を受けたが、手榴弾と短機関銃で二挺を撃破し、倒れ込んでもなお攻撃を続けた。

 

イノウエが最後の機関銃座ににじり寄り、手榴弾を投げ込もうとして右腕を振りかぶったところ、ドイツ軍兵士が発射した小銃擲弾がその右腕に命中、炸裂はしなかったものの、腕はわずかな腱や皮膚を残して切断寸前となった。

 

イノウエの手榴弾は安全ピンが抜かれてはいたが、右手の指が安全レバーを握りしめた状態だったため未発火であった。

 

戦友たちはイノウエを助けようとしたが彼はそれを押しとどめ、右手の手榴弾を左手でもぎ取り、機関銃座の銃眼に投げ込んで炸裂させた。

 

その後、千切れかけた右腕をぶら下げたまま、イノウエは左腕一本で短機関銃を操ってなおも戦闘を続けたが、左足にも負傷して昏倒した。

 

野戦病院で右の下腕を切断され、後送された彼は1年8ヶ月に亘ってミシガン州バトルクリークのパーシー・ジョーンズ陸軍病院に入院。

 

多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄としてたたえられる。

 

同病院は2003年に、イノウエら3名の負傷兵の名を冠して「Hart-Dole-Inouye Federal Center」と改名された。

 

彼は軍務を続け、1947年に陸軍大尉として名誉除隊した。しかし右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめた。

 

その後は政界に進出し、1954年には準州であったハワイ議会の議員に当選した。1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選し、アメリカ初の日系人議員となる。

 

初登院の際、下院議長が通例通り「右手を挙手して宣誓の言葉を続けてください」と言ったが、イノウエは左手を挙げた。

 

議事録には「右手がなかったのである。第二次世界大戦で、若き米兵として戦場で失くしたのだ。その瞬間、議会内に漂っていた偏見が消え去ったのは、誰の目にも明らかであった」との記録がある。

 

2000年6月21日に、陸軍殊勲十字章、ブロンズスターメダルの受賞理由が見直され、軍人に贈られる最高位の勲章である名誉勲章を受章したほか、2007年11月、フランス政府からレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与された。

 

死去に際して、バラク・オバマ大統領は「真の英雄を失った」「彼が示した勇気は万人の尊敬を集めた」との声明を発表したのに続き、レオン・パネッタ国防長官、ヒラリー・クリントン国務長官、上下両院の軍事委員長らが相次いで功績を称えた。

 

同月20日、遺体を納めた棺がアメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に安置され、追悼式典が開かれた。

 

大広間に遺体が安置されるのは、エイブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、イノウエは全体でも32人目、かつアジア系の人物としては初めて大広間に遺体が安置された人物となった。

 

日本の野田佳彦首相はイノウエの妻であるアイリーン・ヒラノ・イノウエに書簡を送り、藤村修官房長官は「在米日系人社会の結束を強化するなど、日系関係の発展に尽力され、その功績は言葉では言い尽くせない。ご遺族、米国政府、米国民の皆さまに心から哀悼の意を表したい」と弔意を表した。

 

2013年5月24日、アメリカ海軍の新造アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の艦名が「ダニエル・イノウエ (DDG-118)」に決定したと発表された(2021年12月、就役)。8月、大統領自由勲章追贈。

 

2017年4月27日に、ホノルル国際空港の正式名称が「ダニエル・K・イノウエ国際空港 (Daniel K. Inouye International Airport, HNL)」に改称。日系アメリカ人の名前が空港名に冠されたのは、「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港(2001年改称)」に次ぐ事例である。

 

Wikipedia

 

 

 

 

画像は Wikipedia より

ノーマン・ヨシオ・ミネタ(1931年~)

1931年11月2日にカリフォルニア州サンノゼにて、1902年にアメリカに渡った静岡県清水町久米田出身の父の峯田国作と三島市大宮町出身の母のかね(旧姓は渡邊)のもとで2男3女の末子として誕生する。

 

第二次世界大戦中はワイオミング州のハートマウンテン日系人収容所に収容され、ここで慰問に来たボーイスカウト団員のアラン・シンプソン(後のワイオミング州選出上院議員)と知り合い、生涯の盟友となる。

 

1953年にカリフォルニア大学バークレー校ビジネススクール学士課程を卒業した。この年にアメリカ陸軍に入り、日本・韓国で情報将校を務める。その後父の経営するミネタ保険会社に勤め、1967年にサンノゼ市議会議員に当選した。

 

1971年にはハワイを除くアメリカ本土では日系人として初めて大都市のサンノゼ市長に当選した。1974年にはやはりアメリカ本土では初めてアメリカ合衆国下院議員に当選した。

 

1995年まで20年以上に渡って下院議員を務め、その間大部分は運輸委員会に所属した他、1988年には太平洋戦争中に行われた日系人の強制収容に対するアメリカ合衆国政府による公式の謝罪及び賠償を規定した市民の自由法の成立を陰で支えた。

 

その後、ロッキード・マーティン社副社長を経て、2000年7月21日から2001年1月20日までビル・クリントン政権で第33代アメリカ合衆国商務長官を務めた。

 

2001年1月25日から2006年7月7日まで共和党のジョージ・W・ブッシュ政権で第14代アメリカ合衆国運輸長官を務め、運輸長官としては最長の任期であった。

 

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件では運輸省でニューヨークの事件を知り、ホワイトハウスから呼び出されホワイトハウスの地下深くのPEOC(President's Emergency Operating Center、大統領危機管理センター)で対応に当たる。

 

アメリカ史上初めて全ての民間航空機の緊急着陸を命令し、国内を飛んでいた4638機の飛行機を2時間20分で全て強制的に着陸させ、アメリカに飛んで来る飛行機の受け入れを拒否し、ヨーロッパ・アジアから飛んで来る飛行機の受け入れをカナダに依頼した。

 

多くのアメリカのジャーナリストがレイシャル・プロファイリングを支持する中で、自身を含む日系人の強制収容を身をもって体験したミネタはこれを拒否し、各方面から批判を浴びる中でCBSの番組である「60ミニッツ」に出演してイスラム教徒やアラブ系への人種差別を非難し、特定の人種に対するスクリーニングを断固として拒否した。

 

一方でそれまで航空会社の自主判断に任されていた空港での安全検査をアメリカ連邦航空保安局に一括し、連邦政府職員による全航空機搭乗者を対象とした検査強化で対応した。

 

2001年11月にミネタの地元にあるサンノゼ国際空港は、ミネタの長年の功績を顕彰して、この空港の正式名称を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」と改称した。

 

日系アメリカ人として名前がアメリカの空港名に冠されたのはミネタが初であった。サンノゼ市は空港のマーケティングのため、「サンノゼ・シリコンバレー・ミネタ国際空港」に改称することを検討している。

 

 

 

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