日本軍人は悪人だった?

反日勢力が主張する、昔の日本軍人は悪人だったというのは本当でしょうか?

 

悪い軍人、悪い人間は世界中のどこにでもいます。

 

人間のいるところに泥棒(悪人)ありです。

 

慰安婦も同じで、軍隊があるところには、必ず業者が売春婦を連れて行き、軍は黙認します。

 

黙認するというか、軍は警察ではないので、軍の施設外で民間人が行う行為を取り締まる権利がありません。

 

さらに軍は、各兵の自由時間まで拘束することはできませんし、それで兵士の性欲が軽減されて、兵士による強姦事件の可能性が低くなります。

 

慰安婦問題も、勿論根も歯もないお話しです。その嘘で、日本の政府からお金を引き出すとんでもない詐欺です。➡︎ 算数と常識で分かる慰安婦問題のウソ

 

ではなぜ日本軍人は悪かったと言われるのでしょうか?

 

西部劇と同じです。

 

アメリカ大陸には元々インディアンが住んでいました。

 

そこへ16世紀の初めの頃から白人が現れて、インディアンを大量虐殺して土地を奪い、アメリカという白人の国を作ってしまいました。

 

ですが、西部劇ではインディアンはなぜか悪者、白人はヒーローです。

 

第二次世界大戦で日本は、敗戦はしたものの、それまで植民地として白人たちに支配されていた東南アジアの国々が、例外なく全て独立できた直接、あるいは間接の原因になりました。

 

ですが、それは白人にとってはとても都合の悪い事実です。

 

そこで事実を捻じ曲げてでも、日本人を西部劇のインディアンにしたいわけです。

 

もし強いて言うとすれば、日本軍人は逆に世界で最も善良であると言え、実際にも多くの美談が残っています。

 

それは、規律が高くて謙虚、謙遜を美徳として譲り合う日本人の国民性をよく思い出してみれば、すぐに腑に落ちることです。

 

もし腑に落ちない場合は、是非一度、「日本人とは?」、そしてこのページの下に続く、日本兵の美談の数々をお読み下さい。

 

白人が繰り広げた膨大な数の戦争と、日本が関わった僅か四つの戦争の数を比べても分かります。

 

世界中で賞賛された、311の時の被災者の方々の態度でも明らかです。

 

先の戦争の時の日本軍人だけが、たまたま超助平(慰安婦問題)で残虐(南京事件)だったのでしょうか?

 

そんなはずはありません。

 

例えば第一次世界大戦で、日本はドイツ軍を打ち負かし、多くのドイツ人捕虜を日本に連れて帰り、板東俘虜収容所​という捕虜収容所では美談が生まれました

 

あるいは、ヘンリー・スコット・ストークスさんの証言です。

 

「私にクラウディアという従兄弟がいる。貴族のような生活をしていた。(中略)クラウディアの親族の老婦人と家族が戦前、香港に住んでいて、家族が日本軍に捕まり収容所に3年半入れられていた。

 

悲惨な生活だったという。私は彼女から収容所のことを聞いた。悲惨な生活といっても、柔らかいトイレットペーパーもなく、聖書のページを使うことを余儀なくされた、という程度のことだだった」

 

ストークスさんは、オックスフォード大学を卒業し、イギリス軍大尉としてインドに4年間駐留した後に、日本でファイナンシャル・タイムズ、その後エコノミスト誌の東京特派員、そしてロンドン・タイムズ、ニューヨーク・タイムズの東京支局長を歴任しました。

 

 

第二次世界大戦で勝ったアメリカのGHQが、6年以上も日本を占領、統治しました。

 

その6年間でGHQは何をしたのでしょうか? 

 

天皇崇拝をはじめ、今までの日本人の価値観、何が良くて何が悪いのかをひっくり返しました。

 

学校の教科書を真っ黒に塗りつぶさせたのもその一環でした。

 

漢字も無くそうとしました。

 

日本人は戦争を始めた大悪人で、その大悪人をアメリカが退治したという図式にするためのWGIプログラムと呼ばれる洗脳工作を行いました。

 

その洗脳工作にまんまと染められてしまったのが日教組(学校の教科書の内容)や反日左翼、朝日、毎日新聞などで、それは今日でもまだ続いています。

 

ではどうしてアメリカは洗脳工作などを行なったのでしょうか? 

 

その理由は、本当の大悪人はアメリカ人だったからです。アメリカは、国際法で禁止されている一般人への攻撃を大掛かりに行いました。

 

国際法とは、どの国でも守らなければいけない国際的な法律です。

 

例えば、軍は敵の軍にしか攻撃できません。

 

一般市民に危害を加えることは、当然のことながら禁止されています。そこで軍人は軍服を着なければいけません。

 

一般人と軍人を見分けるためです。

 

だから中国の軍人が行った便衣兵などはもってのほかの行為です。

 

便衣兵とは、攻撃されないように私服を着て一般市民に化けて相手の軍を攻撃するからです。

 

アメリカは、日本の各都市への無差別爆撃を行い、数十万人もの一般日本人を殺戮しました。

 

若い男性は当時、戦地に行っていたので、日本の各都市に残っていたのは、女性、子ども、お年寄りでした。

 

そこへ集中爆撃を行いました。

 

さらには広島、長崎に原爆を投下して、そこでも数十万人の一般人を殺戮しました。

 

誰がどう見ても、どちらが非人道的かは一目瞭然です。

 

ですがアメリカは元々ヒーローの国です。

 

正義は常にアメリカ側になくてはなりません。

 

アメリカ側が悪人になることなどはあり得ません。

 

そこで戦争責任を日本側に押し付ける工作を行ったのがWGIPと呼ばれるものでした。

 

日本人は元々、太古の昔から和を大切にする平和主義民族です。大陸から適度に離れて攻められにくい島国だったという幸運がありますが、基本的には外敵がいない平和な単一民族です。

 

争いが苦手なことは、和を重んじるところや、人に迷惑をかけないところ、海外と比べて弁護士の数の少なさ、東日本大震災の時に被災地の人たちが見せたモラルの高さから証明されています。

 

日本軍人のモラルの高さ、(正義感の)強さに関する記録はあちこちに残っています。

 

それにもかかわらずに、GHQや反日勢力の捏造で、日本軍人は悪人だったと、多くの日本人が思いこまされてしまっています。

 

 

 

 

 

 

 

エリザ・ルアマー・シドモア(3) 地理学者、著作家、ナショナルジオグラフィック理事

1900年の北清事変(義和団事件)で、日本の軍隊が武勇、規律、装備、敗者への人道的処遇の点で他国より優っていて、卓抜した愛国心を発揮したと絶賛。

 

 

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日露戦争で勝利を収めた日本の乃木将軍は、敗戦国側のステッセル将軍と会見をしました。その際に、アメリカのジャーナリストが映画で記録を残したいと許可 を求めたそうです。

 

乃木将軍は、「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が後世に残るようなものは撮らせるわけにはいかない」と拒み、「会見後、 我々が友人となった後の写真を1枚だけは許す」として残っているのが右の写真です。

 

ステッセル将軍は、その後敗戦の責任を問われて銃殺刑を宣告されたそうですが、それを聞いた乃木将軍がロシア皇帝に手紙で、ステッセル将軍がいかに祖国のために善戦したかを訴え、心を動かされたロシア皇帝は銃殺刑からシベリア流刑へと減刑したそうです。

 

さらに乃木将軍は、ステッセル将軍の残された妻と家族に私費で援助を送り続けたそうです。日露戦争で捕虜となったロシア人は、将官24人、将校2.222人、合計7万9.367人にも及んだそうです。(陸軍省「明治37,38年戦没捕虜取扱顧末」)

 

約8万人のロシア人捕虜は日本全国29ヶ所の収容所に収容されました。軍事通信の青年士官だった、F・クプチンスキーの書いた手記には、日本側の待遇の良さについて多く書かれています。

 

収容所の将校たちは不遜な態度だったそうですが、医師や看護婦は過労で病気になるほど介護に努力をしてくれたため、”ロシア人たちはこの献身的な働き手にどう感謝したらいいのだろうか” という言葉を残しています。

 

さらに...

1等車で収容所入り(随伴の市長は3等車)

慰問者や訪問者の受け入れ

運動会や芝居などの主催

温泉や料理屋への出入りは自由

最高水準の医療...等の厚遇。

 

”こんなやり方では、捕虜収容所のある地方で育った少年たちが捕虜を恥辱としなくなる” と文句が出たほどだそうです。

 

”松山捕虜収容所日記 ロシア将校の見た明治日本” 小田川研二訳、中央公論社。

 

同時期のヒュードル・レンガートによる、”一青年将校の戦争及び牢獄印象記” / ”旅順籠城・剣と恋” 高須梅渓・加島汀月訳、啓成社では、松山での捕虜生活で、16歳の日本人女性と恋に落ちて日本語が読み書きできるようになる話が出ています。

 

他にも、バルチック艦隊の水兵、ノビコフ・プリボイの ”ツシマ” や、京都の知恩院で捕虜生活を送ったウラジーミル・セミョーノフ海軍中佐の ”ツシマ会戦” などが邦訳されて、日本にいた捕虜のほとんどは、生活面の自由を享受し、皇室から庶民にいたる日本人の同情を受けていたことが分かります。

 

 

 

柴五郎陸軍大将 (階級は全て最終階級)

日英同盟のきっかけを作った立役者としてイギリスでも有名。1900年、北清事変にて、北京に押し寄せた約20万人の義和団の内の約1万人が欧米列強諸外国公使館を襲う。

 

その後に襲ってきた約1万人の義和団から3千人以上の公使館員、クリスチャンをわずか500人足らずの柴五郎大佐率いる兵士で最後まで防ぎ守る。戦いで亡くなった部下の安藤辰五郎大尉の戦いざまは特にすさまじかったそうです。陸軍士官学校3期生で、秋山好古と同期。

 

「日本兵が最も優秀であることは確かだし、士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆は驚くべきものだ。わがイギリス水平がこれに次ぐ。しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」イギリス公使館の公使、ランスロット・ジャイル

 

「世界から絶賛される日本人」 黄文雄著 徳間文庫

 

「少なくとも500名 の兵を必要とする王府の城壁を守るのに、わずか十数人の義勇兵しかいなかったが、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。この小男は、 いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下を組織化し、前線を強化した。彼はなすべきことは全てやった。自分はこの男に傾倒してしまった。自分は まもなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるであろう。 ...なぜか自分は日本兵のそばから離れることができなくなってしまった」
 

「小林寿太郎とその時代」 イギリス義勇兵、シンプソン

「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫

 

 

 

1899年10月の陸軍中佐進級を経て1900年3月、清国公使館附を命ぜられる。駐在武官として着任まもない5月、義和団の乱が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生の杉山彬やドイツ公使ケットレル(Clemens von Ketteler)が殺害される。

 

柴中佐は公使・西徳二郎の下で居留民保護にあたり、また他国軍と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い、その功を称えられる。

 

当時、北京には日本の他に11カ国が公使館を持っており、うち日本を含む8カ国が多少の護衛兵を持っていたが、柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。

 

事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。

 

ロンドン・タイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。

Wikipedia

 

クロード・マクドナルド

義和団の乱の際に、在中イギリス公使であったクロード・マクドナルド氏は、柴五郎中佐(当時)率いる日本軍のすさまじい戦い、強さに驚き感動して、「私たちが助かったのは、勇敢な日本人のおかげだ!」と言い、彼はその後に在日日本公使となり、1902年に日英同盟が結ばれることとなりました。

 

1904年から1905年の日露戦争の勝利は、この日英同盟によるイギリスの協力無しではありえませんでした。日露戦争の際に、イギリスは資金の援助だけではなく、情報提供、情報操作、ロシアのバルチック艦隊が遠路、日本に向かう間の燃料補給のための各寄港地、イギリスの植民地でのいやがらせなどを行ってくれました。

 

 

 

樋口 季一郎中将安江仙弘大佐

ドイツ・ナチの迫害から逃れて、シベリア鉄道のソ連領オトポール駅で足止めをくらって難民化していた数千~2万人ものユダヤ人に対して、満州総裁の松岡洋右を説得して特別列車で無料で輸送、ビザの発給を協力に働きかけて助ける。

 

関東軍司令官、上田謙吉大将に:

「小官は小官のとった行為を、決して間違ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治 国家として、当然取るべきことをしたに過ぎない。たとえドイツが日本の盟友であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に 屈するわけにはいかない」

 

東條英機参謀長に:

「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることを正しいと思いますか」

 

「指揮官の決断 満州とアッツの将軍樋口季一郎」 早坂隆 文春新書

「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫

「あの国はなぜ日本が好きなのか「ニッポン再発見」倶楽部

松井 石根(いわね) 1878年 - 1948年 陸軍大将

(捏造の南京虐殺の時の日本軍の総司令官)

 

日中提携、アジア保全の運動に生涯をかけた。

愛知県名古屋市牧野村出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校卒業後、陸軍幼年学校へと進んだ。

在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。

川上は、日本が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。

そのための軸となるのは、日本と中国(支那)の良好な提携であるという。この川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、中国への興味を改めて深めていった。

明治39年、陸大(18期首席)を卒業。松井は、前途を嘱望される逸材として、参謀本部への配属となり、一旦、フランスへと派遣された

出展: Wikipedia 松井石根

佐久間勉  海軍大尉、第4潜水艇長

日露戦争の際に潜水艇長を含む14名を乗せたまま、第4潜水艇が沈没、2度と浮上できずに全員死亡

 

こ のような場合には普通、乗組員は我先にハッチに殺到するところが、全員持ち場を離れずに息途絶えていた。佐久間艇長は遺書を残し、そこには素晴らしい名文 で、必死に修理を行なったもののかなわず、自分の最後の使命として遺書を書き残すとあり、39ページにわたって詳細に記録が残され、部下の遺族に援助を依 頼し、自分の非を天皇陛下にお詫び、この事故を今後の轍として鑑にしたいと記した。

 

このことは当時の新聞紙上に掲載され、その内容は米、英、独、豪などの国々まで伝わり、国内よりもむしろ海外にて、各国の海軍士官教育に典範として用いられる。

 

「佐久間の死は、旧い日本の厳粛な道徳、サムライの道、または武士道を代表した」

 アメリカ軍事専門家、ハンソン・ボールドウィン 「会戦と海難

 

 

 

 

鈴木敬司 陸軍大佐、後少将、「南機関」機関長

中国人、インド人を使ったイギリス軍に支配され、「外国人による搾取は上層から下層まで、あるゆる方面で暴虐さをもって行なわれた。巨大イギリス企業は上等の部分を全て独占し...

 

(バー・モウビルマ初代首相)」の状況から、日本軍がビルマ反英独立運動を支援。ビルマ独立後の軍事の人材を養成するための特別機関である「南機関」が作られた。

ビルマ独立運動に身を投じていた青年志士30人が集められ、海南島で1年間の軍事特訓が行なわれた。中心人物となったのがアウン・サンで、「日本の軍事訓練は厳し過ぎた。何度か自殺を考えるほどだった。しかしラングーンが落ちた時、我々は間違っていないことを確信した。」 とコメントしている

 

その後そこにビルマ人青年約200人、大川周明塾の日本人青年30人が加わり、ビルマ独立義勇軍(ビルマ日本独立混成義勇軍)、BIAが編成された。大将が鈴木敬司、少将がアウン・サン。

 

日本の敗戦色が濃くなり、アウン・サンはビルマを生き残らせるためにはそれしかないと日本軍を裏切って攻撃。仲間の多くは日本に亡命。

 

 

終戦後、「南機関」を率いた鈴木敬司大佐が見せしめのためにビルマに連行され、ラングーン刑務所に収監された。

 

BC級戦犯として裁判にかけられそうになったとき、アウンサンは「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」と猛抗議し、鈴木氏を釈放させることに成功したという。

 

南機関から「30人の同志(三十人の志士)」として過酷な軍事訓練を受けた一人のネウィン(Ne Win)は、 1962年から1981年まで第4代ビルマ連邦大統領となり、1966年に鈴木氏らをビルマに招待。

 

1981年には、南機関の関係者6人にビルマ最高の栄誉「アウンサンの旗」勲章を授与し、ビルマ独立の礎を築いたその偉業を称えた。

 

アウンサンからの感謝状:

勲章が授与された時には、既に鈴木氏は他界していた。代わりに出席した鈴木夫人は、ある書状を携えていたという。

 

それは、1942年に鈴木大佐が任務を終えてビルマを去る際、アウンサン(下写真)ら独立の志士から手渡された感謝状だった。そこには、このような感謝のメッセージがつづられていた。

 

「父親が子供に教え諭すがごとく、その子供を守るがごとく、雷将軍(鈴木敬司氏)は真の愛情をもって、ビルマ独立義勇軍の兵士全員を教え、全員をかばい、全員のことに心を砕いてくれた。

 

ビルマ人は、その老若男女を問わず、このことを忘れることは決してない。われらは、ビルマ独立軍の父、ビルマ独立軍の庇護者、ビルマ独立軍の恩人を末永く懐かしむ。

 

将軍のビルマ国への貢献も、いつまでも感謝される。たとえ世界が亡ぶとも、われらの感謝の気持が亡ぶことはない」

 

 

 

 

松尾敬宇中佐

 

勇敢な行動から、つまりオーストラリア軍にとってはとても大きなダメージを与えたにもかかわらず、

戦時中としては異例の、対戦国オーストラリア海軍による国葬が執り行われた。

 

昭和17年6月5日、オーストラリア海軍は松尾艇と中馬大尉・大森一曹艇を引き揚げた。

 

6月9日、シドニー要港司令官ムアーヘッド・グルード海軍少将は2隻の特殊潜航艇から収容した

 

四人の日本兵士の遺体を海軍葬をもって弔うとともに、その嚇々たる武勲と忠勇義烈の精神を褒め称える声明を発表した。

 

葬儀にはグルード少将のほか海軍士官、スイス総領事などが参列し、日本国旗に包まれた棺に二列に整列した海軍儀杖隊が「敬礼」「捧げ銃」を行い弔銃を発射した。

 

この海軍葬に対してオーストラリア国内では批判の声があがったが、グルード少将は次のように述べて批判をしりぞけた。

 

「あの鉄の棺桶のようなもので出撃するには最高度の勇気を必要とする。彼等の持っている勇気は、

 

いずれの国民の特質でも、伝統でも、遺産でもない。(中略)これらの勇士は最高の愛国者である。

 

はたしてオーストラリア人の幾人が、この日本の勇士の千分の一の覚悟を持っているだろうか」

 

昭和40年6月9日、松尾艇の遺品が展示されているオーストラリア戦争記念館のマックグレース館長夫妻が熊本県の松尾家を訪問した。

 

館長夫妻は松尾中佐の墓に参り、ご母堂まつ枝さんに対して「全国民が令息の勇気を尊敬しています」と挨拶した。

 

ご母堂は海軍葬の礼を述べ、自作の和歌の色紙を遺品と共に置くことを望んで手渡し、また潜航艇に注ぐための清酒を館長夫妻に託した。

 

出典(及び画像): asahi-net.or.jp

https://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/toku-matuo.htm

 

 

 

 

 

藤原岩市 陸軍中佐「F機関」責任者

第2次世界大戦のマレーで、宣伝作戦、心理戦、民心獲得工作を担い、イギリスからの独立を目指すインド国民軍、INAを創設。戦後、インド民軍は英国によって裁判にかけられたが、これに反対する暴動が起こり、インド独立のきっかけの一つとなる。

 

「世界から絶賛される日本人」黄文雄 徳間文庫

 

 

 

今村均 陸軍中将「インドネシア・ジャワ義勇軍、PETA」責任者

ジャワを占領した後、入獄中の独立運動の指揮者、スカルノ(初代大統領)を釈放。

 

その後逆に今村が死刑を求刑されると思われた際に、スカルノたちから身柄 奪還の計画を打ち明けられるものの、「部下が無実の罪で死刑になっている時に、自分が逃げるわけにはいかない」と断る。

 

裁判では告発された罪状がすべて事実無根と分かって無罪となったものの、巣鴨にて10年の刑を受ける。その際に、部下達が服役している赤道近くのマヌス島 で、部下たちと一緒に刑期に服したいと懇願運動を起こす。

 

マッカーサーは感心し、「日本に来てから初めて真の武士道に触れた思いであった。すぐに許可する ように命じた」と言わせた。

 

インドネシア・ジャワ義勇軍、PETAは、194212月、日本軍がインドネシア占領とともに大東亜戦争一周年を記念して、民間の総力を結集させて防衛に当たらせるというプートラ運動を開始。

 

4.000の支部を作り、56万の青年を団員として組織。その団員は最終的には130万人にも膨れ上がり、日本の歩兵操典に基づく日本式スパルタ教育が施される。訓練を終えた青年団は、地方防衛の警防団の団員となった。
 

 

 「陸軍大将・今村均」土門周平 PHP研究所

「世界から絶賛される日本人」黄文雄 徳間文庫

 

  

工藤俊作 海軍中佐 雷(イカズチ)艦長

戦時中、しかも連日の交戦の中、敵の沈没艦から投げ出された422人の漂流イギリス兵を発見、、工藤が当時艦長を務める雷の乗組員がわずか220人であるにもかかわらずにイギリス兵を救助する

 

そのイギリス漂流兵たちは、すでに丸一日ほど海にさまよって力尽きていたため、いつ敵の潜水艦などに攻撃されるかもしれない中、1番砲の操者を除いて全ての兵士に救助活動を指示。全力で敵兵の救助を行なった。

 

工藤はその後、別の艦の艦長に配属され、雷は不幸にもその後に敵の攻撃で撃沈、乗組員全員死亡。

 

その422人の中の1人、砲術士官であったサムエル・フォースは、その後出世してサーの称号も得る外交官となり、戦後61年たった2003年に始めて日本を訪れ、自衛隊観艦式に参列。

 

当時のその事実を述べて、日本人に対する尊敬と感謝の念を表すために来日したと述べた。その後工藤の墓が見つかり、サムエル・フォースは6年後に再び来日。工藤のお墓参りをする。

 

「My lucky life] サムエル・フォース著

 

編集後記: 

工藤俊作雷(イカズチ)艦長は、自分が乗っていた艦が自分の移動後に、不幸にも敵の攻撃で沈んでしまって亡くなった部下たちを思い、その事実を誰にも言わずに亡くなりました。サムエル・フォースさんが現れなければ、誰も知らないで終わってしまったストーリーです。

画像とテキストの内容は、パタヤ日本人会 PJA(Pattaya Japanese Association in Thailand)から(画像クリックでリンクしています)

中村 明人(なかむら あけと、1889年4月11日 - 1966年9月12日)大日本帝国の陸軍軍人、最終階級陸軍中将

 

タイが親日となった事に大きく貢献し、今日のタイで未だに最も有名な日本人です。第二次世界大戦中のタイの日本軍の司令官でした。

 

中村は日本陸軍幹部の中でも「ホトケの司令官」と呼ばれるほどに温厚な人柄で、力強い軍人でした。

 

中村の戦術思想は事前に充分な準備を整え、万全な対策を練り、まず勝つべきを為して戦うことを徹底していたといい、常々、部隊統率の本義は孫氏の兵法を引用して「愛情と厳正」と説いたといいます。

 

中村の人望は厚く、中村が陸軍大学校で教鞭をとっていた折にも、生徒たちからは実の父のように慕われていた人物だったという記録もあります。(陸大47期生記録)

 

この頃、日本陸軍の強硬派は、抗日レジスタンス活動が活発化したタイを、軍事力で強硬に制圧し武装解除させるべきという強硬論を強く主張していました。

 

しかし第18軍司令官となった中村は、これを止めにかかります。同盟国であるタイの国民を軍事力で威嚇し、さらに交戦をすれば、反日感情がさらに高まるばかりとなってしまうため、これを止めたのです。

 

そして中村は、日本軍がタイで反発を招かないよう、日本兵にタイで気を付けるべきことなどの指導を徹底していきます。

 

中村は、タイでは子供の頭をなでてはいけない、僧侶は敬わらなければならないなど、日本人がタイでの生活で気を付けるべき事を、わかりやすく冊子にして「べからず集」として配布するなどしました。

 

このような中村の判断と、懸命な取り組みをする姿を目の当たりにして、タイの人も含めて多くの人が中村に心服したといわれています。しかしながらその後、戦局はさらに悪化の一途を辿ります。

 

1944年7月にはサイパンが陥落し、日本本土への空襲も激しさを増します。これを受けて日本では東条英樹内閣が失脚、タイでも親日の政権だったピブン内閣が失脚し、アパイウォン内閣となります。

 

この頃には連合軍によるタイへの空襲も、さらに激しさを増していきました。タイの人心も敗色濃厚な日本軍から離れ、自由タイ運動も激しさを増していきました。
タイのアパイウォン内閣は表面上は日本軍に協力しているかのように振る舞いますが、実際には裏で自由タイ運動に協力していました。

 

このことを日本軍は察知しており、日本陸軍の中では、タイを武力制圧して武装解除させて軍政を敷くべきだという強硬論がさらに強まっていました。

 

この頃には自由タイ運動側はタイの政府、軍などタイ側と強く繋がり、バンコクの要所各地へ”連合軍の侵入に備える為”という名目でトーチカなどを次々と建設していきました。しかしこれは実際には日本軍と戦う抗日運動のためであることは明白だったので、日本軍もトーチカや陣地、砲台などをバンコクに多数構築して対抗しました。こうして日本軍とタイ側は、一触即発の事態に至りました。

 

しかしここでも中村は、日本軍がタイ側へ武力攻撃する事を必死で止めます。
中村は「自由タイは、戦局を左右するものではない。」、「長い目で日泰関係を見ると、相互に戦争や占領という汚点は残すべきではない。」と説いて、日本とタイの将来の関係まで考えて、攻撃を止めたといいます。

 

このようにして、中村の判断と取り組みにより、ついに1945年8月に日本が敗戦するまで日本とタイとで交戦する事はありませんでした。

 

日本の降伏後、日本は敗戦国としてGHQに占領されて戦後処理を行われることとなりますが、タイは英米への協力をしていた自由タイ運動への評価などによって、敗戦国として処理される事を免れることができました。このようにしてタイは戦後処理での被害を少なく止めることができたのです。

 

中村は敗戦時に捕虜となり、その後は連合軍のA級戦犯の逮捕リストに載せられ、日本の東京にあった巣鴨プリズンに収容されますが、1946年9月に不起訴となり釈放されました。

 

出展元: パタヤ日本人会 PJA(Pattaya Japanese Association in Thailand) 

 

 

根本博陸軍中将

「台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」

 

満州に隣接する内蒙古の日本軍司令官・根本博陸軍中将は、終戦直後、在留邦人4万、配下の軍人35万を従えて、本国からの武装解除の命にあえて反してソ連軍と戦いながら、北京・天津を経由して日本への帰還を無事果たす。道中、助力してくれたのは蒋介石の国民党軍だった。

 

1949年、国共内戦に敗れた国民党軍は台湾に渡り、押し寄せる共産党軍と廈門・金門島を挟んで対峙するに至る。

 

まさに破滅の淵に、根本博は少数の仲間とともに粗末な舟で危険を冒して渡海して参戦する。受けた恩義にただ報いんとするためである。

 

もし、GHQ占領時の1949年に、家族には釣りに行くと告げて釣り竿一本携えて苦難の密航までして台湾援助に駆けつけた根本博の「戦神」と称えられた軍事貢献がなかったら、台湾は中共に占領され、戦後の日本及び北東アジアの運命も大きく変わっていたはずで、正に、根本博は戦後の日本と台湾の救世主の一人だったと思われる。 

 

そして、これにより中国大陸のごく傍にある金門島が、何故今も台湾領土であるかの理由が理解できた。

 

戦神と呼ばれた根本博の活躍により、10月24日からの古寧頭の戦いで共産党軍およそ3万は壊滅し、共産党の台湾侵攻は挫折した。しかし、この激戦に旧日本軍将校が参与していたことはタブーとなり、いまや忘れ去られようとしている。

 

門田 隆将著

「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」

角川文庫

 

 

 

柳川宗成 軍中尉

「インドネシア・ジャワ義勇軍、PETA」に日本の歩兵操典に基づく日本式スパルタ教育を施した現場の責任者。ジャカルタ西郊のタンゲランでは、「青年道場」と呼ばれるインドネシア特殊要員養成隊を開設し、51人のインドネシア青年の軍事訓練にあたる。

 

青年道場では、朝5時から10時まで軍事訓話、体育、実地訓練などが行われ、精神訓話では、「正直であれ」「勇気を持て」「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込んだ。

 

インドネシア・ジャワ義勇軍、PETAでは、幹部練成隊を編成、義勇軍幹部教育隊を発足して要員700名を教育、軍事訓練して、後の独立軍幹部を生み出した。

 

戦後は家族とともにジャカルタに移住して自宅で逝去。葬儀には教え子であったスハルト大統領や副大統領からの献花があった。死後は、「国(インドネシア)軍の父(パパ・ミリテール)」と愛称された。

 

当時、劣勢だった敵のオランダ軍に単身乗り込み、1時間にわたる直接交渉の後、オランダ軍司令官、テル・ポールデン中将を説得して全面降伏させるという武勇伝がある。

 

黄 文雄著「世界から絶賛される日本人」徳間文庫

土屋競 インドネシア・ジャワ義勇軍、PETA中隊長 

1968年、インドネシアのスハルト大統領が訪日した際に、スハルトの元教官であった土屋に...

「貧しい農民の子として生まれた私が、仮にも大統領の職に選ばれるようになったのは、すべてあなたの教育のお陰です」

 

「アジアにまかれた種子」文芸春秋

黄 文雄著「世界から絶賛される日本人」徳間文庫

 

 

 

 

 

国分正三 海軍大尉 

海軍随一の暴れん坊との異名をとり、軍服を脱いでからは一浪人として、ビルマのラングーンで柔剣道を教え、妻は歯科医院を開業した。

 

タキン党の志士たちの資金と武器支援の要求に、台湾から内地、満州へと渡り、石原莞爾(かんじ)少将、「大亜細亜協会」の会長松井石根、山本五十六海軍次官と会い、30万円の軍資金を作る。

 

黄 文雄著「世界から絶賛される日本人」徳間文庫

 

 

 

 

 

 

 

渡辺渡 陸軍少将(1896~1969) 

マレーの「昭南興亜訓練所」で独立軍を育成。

 

黄 文雄著「世界から絶賛される日本人」徳間文庫

 

 

 

前田精少将、稲嶺一郎軍政官、清水斉、金子智一、高杉晋一

インドネシアの独立に貢献したことで、国家最高勲章、「ナラリア勲章」を授与される。

 

黄 文雄著「世界から絶賛される日本人」徳間文庫

 

 

世界遺産ビガン地区を救った高橋大尉

ルソン島の北部に位置する世界遺産「ビガン歴史都市 Historic Town of Vigan」(下写真)。スペイン統治下で商業・貿易の拠点として栄え、当時築かれたユニークな街並みが広がる。

 

太平洋戦争当時、フィリピン各地の街はアメリカ軍による爆撃を受け壊滅状態となったが、ビガンの街並みだけは奇跡的に戦禍を逃れた。これには、ある日本人将校の残した一つの行動が大きく関わっている。

 

当時ビガンには日本軍の高橋大尉率いる守備隊が駐屯していた。高橋大尉は現地でフィリピン女性アデラ・トレンティーノ(Adela Tolentino)と結婚し可愛い娘もいた。大尉は現地に溶け込み、地域住民の信頼も得て、ビガン市民と友好な関係を築いていた。

 

やがて戦況が悪化し、アメリカ軍の砲撃・爆撃がフィリピン各地の街を次々と破壊していくと、ビガンを守る高橋大尉の部隊にも撤退命令が下された。大尉は親 交のあったビガンのドイツ人神父クレカンフ司教(Fr. Joseph Klecamf, The Parish Priest of Vigan)に妻子を託し、次のように懇願して街を去って行った。

 

「私はこの地で結婚した愛する妻、愛する娘を残して行かねばなりません。アメリカ軍の砲撃によって、家族と暮らしたこの美しいビガンの街が破壊されることのないよう、我らが撤退したことをアメリカ軍に伝えてください。」

 

高橋大尉の真摯な願いに心打たれたクレカンフ司教は、広場には大きな白旗を掲げ、まさに砲撃準備に入っていたアメリカ軍に日本軍が完全に撤退したことを伝えると、ビガンの街は寸前のところで砲撃をまぬかれ、無益な破壊が行われることもなく米軍に占領された。

 

高橋大尉の部隊はその後の戦いで全滅し、大尉は帰らぬ人となった。クレカンフ司教に託された妻子は戦火の中を無事生き延び、戦後はしばらく妻アデラの実家で暮らした後、マニラ方面へ移り住んで、以後消息は途絶えてしまった。

 

2001年、元ビガン市長秘書官のアントニオ・フロレンティノ氏によれば、高橋大尉の娘がビガンに訪れたという。フロレンティノ氏は滞在先を訪ねたが、彼 女は既に去った後だった。風のうわさでは、2001年当時、妻アデラはその頃既に亡くなっており、2人の娘はマニラに暮らしているという。

 

世界遺産「ビガン歴史都市」は今日もその姿をとどめ、スペイン統治時代の面影を色濃く残し、現代の我々にとって貴重な文化遺産として、その存在を確かに保 ち続けている。ビガン市が属するイロコス州知事サベリャーノ(Savellano)氏は、次のように述べて高橋大尉の価値ある行動を讃えている。

 

「ビガンの街は、彼ら日本人の『愛』によって救われたのです。」

 

世界の国歌

全米で絶賛された市丸中将の米国大統領宛の手紙

 

硫黄島の戦いは、戦史に残る壮絶で凄惨を極めた戦いです。昭和20(1945)年2月19日の米軍上陸から、3月26日の玉砕まで繰り広げられました。


日米の島しょにおける戦いでは、唯一、米軍の死傷者数が日本軍のそれを上回った戦いです。


島にいた日本の守備隊は、陸軍が栗林忠道中将率いる1万3,586名、海軍が市丸利之助中将率いる7,347名、合計2万933名です。米軍は、そこに11万の大軍を送りこんできました。


ここで戦死した市丸中将の遺した書は、なぜか日本よりも、全米の国民に影響を与えています。あらゆる兵力においてはるかに勝る米軍との激戦において、市丸中将は、最後の総員突撃を敢行するに際して、「ルーズベルトに与うる書」を遺されています。


この「書」は、市丸中将の死後、「死に臨んだ日本の一提督の米国大統領宛の手紙」と題されて、米国の各大手新聞で、その全文が紹介されました。また、戦後ベストセラーになったジョン・トーランドの「昇る太陽-日本帝国滅亡史」でも紹介されました。


その内容は、ひとことで要約すれば、強国が弱国を蹂躙し、支配し、奪うのが当たり前とする19世紀的覇権主義を否定し、世界の人種それぞれがそれぞれの地域で自主独立し、もって恒久的世界平和を実現するという、まさに現代の世界の人々にとって立派に通用する内容のものとなっています。


当時、米軍は、戦いの後、日本兵の遺体から所持品を確かめていました。市丸中将は、それを知って、この「書」をしたためられています。


市丸中将が、最後の突撃攻撃を行って散華されたのは、3月26日です。
その9日前の3月17日、中将は、地下20メートルの洞穴に、動けるものを全員集めました。


そして副官である間瀬式次中佐が、一歩前に出て、「ルーズベルトニ与フル書」を読み上げた。朗読が済むと、この書の和文のほうを通信将校の村上大尉が腹に巻きつけました。

英文のものは赤田邦夫中佐(二七航戦参謀)が身に付けました。


そして市丸中将は、栗林中将とともに、軍服にある一切の肩章を外し、ひとりの皇国臣民として、最後の突撃を行い、散華されています。


この最後の突撃のときの遺体の数は、わずか196柱でした。陸海合わせて2万933名いた守備隊は、3月26日の吶喊攻撃のとき、動ける者は、すでに196名になっていたのです。


「ルーズベルトに与うる書」は、米海兵隊員の手で二人の遺体から発見されました。従軍記者エメット・クロージャーは、発見の経緯と手紙の本文を4月4日、本国に向けて打電しました。


そして「書」は、米国内の様々なメディアで紹介され、全米で大絶賛されました。「書」に書かれた理想は、形を変えて米国の理想となりました。


軍人にとっての勝敗は、もちろん戦いに勝つことです。それが島の守備隊であれば、島を敵の手に渡さない、島を守りきることが軍人としての使命です。


けれど国を挙げての戦争は、国家の目的と目的がぶつかったときに、その紛争を解決するための最後の手段です。


大東亜戦争に関していえば、「優秀な白人種」が「劣勢民族である有色人種」を絶対的に支配し、蹂躙し、奪うのが当然とする価値観と、人種の平等と合い共に繁栄することを求める理想との戦いです。


市丸中将は、自らの死を目前として、たとえ硫黄島が奪われ、我が身が土に還ったとしても、人が人として生きることの大切さをこの「書」にしたためることで、死して尚、日本の描いた壮大な理想、悠久の大義のために戦い続けようとしたのではないか。

 

当時の駐米英国公使であるロナルド・キャンベルは、ルーズベルトについて、英国外務省に宛てた手紙で次のように書いています。

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ルーズベルト米大統領は、優秀な白人種とアジア人との交配によって新しいアジア系民族を産み出し、立派な文明と社会をアジアに建設しようと考えている。

ただ大統領は、白人より二千年も遅れた頭がい骨をもつ日本人はこの対象から除外し、もとの四つの島に隔離して次第に衰えさせようと考えている。

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残念ながら、ルーズベルト大統領その人は、市丸中将の書簡が米本国に打電された8日後に他界しています。


けれど、市丸中将の「書」は、全米の良心を動かし、いまや人類の常識として後世に立派に生き残っています。


市丸中将の遺稿となった、その「ルーズベルトに与うる書」の全文を、口語訳、原文、でご紹介します。


市丸中将のまさに血を吐く思いで書き綴ったこの「書」は、当時の日本の心を描いた普及の名著ともいえるでしょう。

 

 

 

 

口語訳】ルーズベルトに与うる書

 

日本海軍市丸海軍少将が、フランクリン・ルーズベルト君に、この手紙を送ります。


私はいま、この硫黄島での戦いを終わらせるにあたり、一言あなたに告げたいのです。

 

日本がペリー提督の下田入港を機として、世界と広く国交を結ぶようになって約百年、この間、日本国の歩みとは難儀を極め、自らが望んでいるわけでもないのに、日清、日露、第一次世界大戦、満州事変、支那事変を経て、不幸なことに貴国と交戦するに至りました。

 

これについてあなたがたは、日本人は好戦的であるとか、これは黄色人種の禍いである、あるいは日本の軍閥の専断等としています。


けれどそれは、思いもかけない的外れなものといわざるをえません。

 

あなたは、真珠湾の不意打ちを対日戦争開戦の唯一つの宣伝材料としていますが、日本が自滅から逃れるため、このような戦争を始めるところまで追い詰めらた事情は、あなた自身が最もよく知っているところです。

 

おそれ多くも日本の天皇は、皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で表現される国家統治計画に基づき、地球上のあらゆる人々はその自らの分に従ってそれぞれの郷土でむつまじく暮らし、恒久的な世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。

 

このことはかつて、四方の海皆はらからと 思ふ世になど波風の 立ちさわぐらむという明治天皇の御製(日露戦争中御製)が、あなたの叔父であるセオドア・ルーズベルト閣下の感嘆を招いたことで、あなたもまた良く知っていることです。

 

わたしたち日本人にはいろいろな階級の人がいます。けれどわたしたち日本人は、さまざまな職業につきながら、この天業を助けるために生きています。


わたしたち軍人もまた、干戈(かんか)をもって、この天業を広く推し進める助けをさせて頂いています。

 

わたしたちはいま、豊富な物量をたのみとした貴下の空軍の爆撃や、艦砲射撃のもと、外形的には圧倒されていますが、精神的には充実し、心地はますます明朗で歓喜に溢れています。

 

なぜならそれは、天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理だからです。けれどその心理は、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。わたしたちは、そんなあなた方の心の弱さを悲しく思い、一言したいのです。

 

あなた方のすることは、白人、とくにアングロサクソンによって世界の利益を独り占めにしようとし、有色人種をもって、その野望の前に奴隷としようとするものに他なりません。

そのためにあなたがたは、奸策もって有色人種を騙し、いわゆる「悪意ある善政」によって彼らから考える力を奪い、無力にしようとしてきました。

 

近世になって、日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種、ことに東洋民族をして、あなた方の束縛から解放しようとすると、あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、ひたすら日本を有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、公然と日本人種の絶滅を口にするようになりました。


それは、あなたがたの神の意向に叶うものなのですか?

大東亜戦争によって、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれの民族が善政を謳歌します。


あなた方がこれを破壊さえしなければ、全世界が、恒久的平和を招くことができる。
それは決して遠い未来のことではないのです。あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているではありませんか。

 

数百年来あなた方の搾取から逃れようとしてきた哀れな人類の希望の芽を、どうしてあなたがたは若葉のうちに摘み取ってしまおうとするのでしょうか。

 

ただ東洋のものを東洋に返すということに過ぎないではありませんか。
あなたはどうして、そうも貪欲で狭量なのでしょうか。

大東亜共栄圏の存在は、いささかもあなた方の存在を否定しません。


むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するものなのです。
日本天皇の神意は、その外にはない。


たったそれだけのことを、あなたに理解する雅量を示してもらいたいと、わたしたちは希望しているにすぎないのです。

 

ひるがえって欧州の情勢をみても、相互の無理解による人類の闘争が、どれだけ悲惨なものか、痛嘆せざるを得ません。

 

今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することは慎みますが、彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、一次大戦終結に際して、その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国に被せ、極端な圧迫をするあなた方の戦後処置に対する反動であることは看過すことのできない事実です。

 

あなたがたが善戦してヒトラーを倒したとしても、その後、どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するおつもりなのですか?

 

およそ世界が強者の独占するものであるならば、その闘争は永遠に繰り返され、いつまでたっても世界の人類に安寧幸福の日は来ることはありません。

 

あなた方は今、世界制覇の野望を一応は実現しようとしています。
あなた方はきっと、得意になっていることでしょう。

 

けれど、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂の時に失脚したのです。


願わくば、私の言外の意を汲んでいただき、その轍を踏むことがないようにしていただきたいと願います。


市丸海軍少将

出展: Ameba https://gamp.ameblo.jp/kandoukotoba/entry-12012599161.html

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