「日露戦争の直前、ヨーロッパでは『日本人の外国人に対する憎悪が増し、日露が戦うと在日外国人が虐殺に遭うかもしれない』という報道に対して、『外国人に対する憎悪や敵意は日本には存在しない。
たった1人で、あるいは日本人のメイドを1人連れただけで、外国人婦人が日本のあらゆる方面を旅行している。宣教師も行きたいところに行き、全く自由に説教し、教えることができる。
在日外国人は戦争が起こっても、日清戦争や三国干渉の時と同様、全く安全である』
特命全権公使、アルベール・ダネタン男爵(1883〜来日)
(このコメントは、当時の日本を含めて世界中を旅行していた、イザベラ・バード、紀行作家(1831~1904) さんの次のコメントと同じです。 「世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国は無い」)
1894年12月7日、日露戦争の際、日本軍の旅順港の占領にあたり、日本軍が住民に対して残虐行為を行ったという報道がなされた。その時もダネタン公使は当初、遺憾の意を述べたが、同月28日付で『旅順港で日本軍が行ったとされる残虐行為は、ニューヨーク・ワールド紙の記者により、多分に誇張されたものだった。
その場に居合わせたフランス武官・ラブリ士爵から直接聞いたところ、殺されたのは軍服を脱いだ兵士たちで、婦女子が殺されたというのは真実ではない。ほとんどの住民は占領前に避難しており、町に残っていたのは兵士と工廠の職人だけだった。
日本兵は無惨に扱われた戦友の死骸を見ながら何とか敵を捕虜にするだけにとどめた』と本国に報告した。
また、1904年、ヨーロッパで日本軍がロシア兵の捕虜を虐待しているという報道に対しても、『8月12日、海戦で沈没したリューリック号の捕虜601人が日本軍に救出されて日本に着いた。
2名が傷の悪化で死んだが、彼らはロシア正教の儀式に従い、軍の礼式によって葬られた。執り行ったのは日本軍がジュネーブ協定に則ってただちに自由にしたリューリック号の従軍司祭である』 同アルベール・ダネタン公使
国際舞台に遅れて登場した日本に対する誤解や偏見が大きい中、その是正に努め、ダネタン公使は真実を伝えようと心を砕いてくれた。1910年7月25日、日本で亡くなった彼は、雑司ヶ谷墓地に葬られた。
その後、日本とベルギーの国交交友関係はとても良く、1923年に起きた関東大地震の時は、日本の12分の1の広さしかない小国ベルギーからの援助金は、アメリカ、イギリスに続く3番目の金額だったそうです。
出典: 四條たか子著、井沢元彦監修「世界が愛した日本」竹書房