日清戦争に続き、日露戦争にも勝利した日本は世界中から騒がれました。日本のように小さく無名な国が、当時の大国、大軍事国、軍事最強国に勝てるわけがないというのが世界の予想、常識でした。
東郷平八郎率いる日本海軍連合艦隊は、その規模ほぼ2倍といわれたロシアの太平洋艦隊及びバルチック艦隊を、海戦史上稀に見る勝利といわれるほどまでに見事な圧勝を収めました。
陸上でも、大山厳将軍率いる日本陸軍は勝利を収めましたが、特に有名なのが、難攻不落といわれた旅順の203高地を陥落させた第三軍の司令官、乃木希典陸軍大将です。
最も多くの日本人が知る1904年〜1905年の日露戦争の知識は、司馬遼太郎の歴史小説、「坂の上の雲」から来ていると思います。
司馬遼太郎が10年かけて書いたという大作で、1968年から4年間、産経新聞に連載されたそうです。
そしてNHKでは3年間かけて放映されたので、それを見た人も多いと思います。
その「坂の上の雲」では、どういうわけか、乃木大将が愚将として描かれているので、嫌ってしまっている人も多くいます。
ロシア軍が占領していた中国の旅順要塞の203高地を日本軍が陥落させるのに、数万人もの日本人兵士の命が犠牲になったので、その時の日本陸軍第三軍を率いていた乃木大将は愚将だということになっているからです。
司馬遼太郎は、歴史小説を書く時には、そのことについてかなり勉強するそうですが、どういうわけか間違った情報を得てしまったのでしょうか。
乃木希典陸軍大将は、司馬遼太郎にいたく嫌われているようです。
実際の乃木大将は、「坂の上の雲」で描かれている愚将とはかけ離れた、軍人、将校としても、人間としてもとても素晴らしかったことが分かっています。
まずはそれまでの世界の要塞攻撃についてですが、要塞とは元々敵に攻められても大丈夫なように作られるので、攻める方には必ず多くの犠牲者が出ます。
1854年、やはりロシア軍が立て篭り、イギリス、フランス、トルコ軍が攻めたセヴァストポリ要塞戦。
旅順要塞攻撃の10倍の犠牲者が出て、要塞が落ちるまでに3倍の時間がかかっています。
しかも旅順要塞はセヴァストポリ要塞の6倍の強度があると言われていたそうです。
そしてセヴァストポリ要塞戦の時には、旅順で火を噴いた機関銃がまだ存在していませんでした。
第一次世界大戦の時のベルダン要塞の戦いでは、フランス側の死者16万人、ドイツ側が10万人。
要塞が落ちるのに要した期間が10ヶ月。
旅順で戦死したのは、日露共にほぼ1万6千人。
かかった期間は4ヶ月。
当時の事実としては、世界の軍事専門家が、乃木大将の功績にかなり驚いていたそうです。
そして乃木大将の人間性についてですが、当時の乃木大将戦略本部には数人の記者が従軍していました。
その中に、アメリカ人記者でスタンレー・ウォシュバンという人がいました。
スタンレー・ウォシュバンさんは、乃木大将の近くで日露戦争中の多くの時間を過ごしました。
毎日のように身近で乃木大将を観察していましたが、乃木大将の質素さ、部下を思う思いやり、その人間性を知るにつれてファンになってしまったそうです。
実は乃木大将は日露戦争の前、1877年の西南の役で官軍側のひとつの連隊を率いていましたが、西郷隆盛率いる薩摩軍に軍旗を奪われてしまいました。
軍旗というのは軍にとっては命です。乃木大将は罪を償うのに切腹自決を申し出ましたが、上官である総指揮官の山県有朋に受け付けられませんでした。
その後も自決の考えを持ち続けましたが、旅順要塞陥落に大貢献した同じ日本陸軍将校の児玉源太郎にたしなめられました。
日露戦争では多くの部下、兵士の命を犠牲にしてしまったので、帰国するなり明治天皇に責任を取って自決することを願い出ました。
明治天皇は、「朕の目が黒いうちはそれは許さない」と言って、乃木大将を後の昭和天皇となる孫の教育係を申し付けました。
日露戦争の7年後、1912年に明治天皇は持病の糖尿病が悪化して崩御。乃木大将は、明治天皇が当時言った「朕の目が黒いうちはそれは許さない」を守って切腹自決。
乃木静子夫人も同様に自決。乃木大将は自分の遺書に、分からないことがあれば静子夫人に聞くように記していることから、静子夫人までが後を追って自決することを知らなかったようです。
乃木大将夫婦には4人の子供がいましたが、その内の2人は幼少の頃に他界、残った2人も日露戦争で他界。
夫である乃木大将が亡くなったことで、全てを失ったことによる後追い自決だったのでしょうか。
乃木大将が素晴らしいと思うのはまずその人間性です。
日露戦争中に乃木大将の近くでずっと一緒に過ごし、その謦咳に接することのできたアメリカ人従軍記者にスタンレー・ウォシュバンさんという人がいます。
彼は乃木大将の訃報を聞いて、「乃木大将と日本人」という本を出しました。
数万人もの命が犠牲になった203高地陥落の際の祝賀パーティーで、スタンレー・ウォシュバンさんはそこに乃木大将がいないことに気がつきました。
探してみると、乃木大将は屋外で両手を顔にあてて泣いていたそうです。
「両軍これだけの犠牲を出したのだ。今は祝う時ではない」と言ったそうです。
歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は後年、「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と述べたほどであるそうです。
旅順要塞陥落の後、絶対に負けるという世界の予想に反して日本海戦で圧倒的な勝利を得た日本軍は、陸上でもロシア軍を破って講和になりました。
講和が決まり、ロシア将兵は日本軍の捕虜になりましたが、アメリカのジャーナリストが画像で記録を残したいと撮影の許可を求めたそうです。
乃木将軍は、「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が後世に残るようなものは撮らせるわけにはいかない」と最初は拒みました。
「会見後、 我々が友人となった後の写真を1枚だけは許す」として残っているのがこの写真です。
両軍の将官が集まった記念撮影ですが、両軍共に武器(日本刀・サーベル)を携帯して写っていますが、これは過去の世界の戦争の常識ではあり得ないことだそうです。
ステッセル将軍は、その後敗戦の責任を問われてロシア皇帝ニコライ2世から銃殺刑を宣告されたそうです。
それを聞いた乃木将軍がロシア皇帝に手紙で、ステッセル将軍がいかに祖国のために善戦したかを訴え、心を動かされたロシア皇帝は銃殺刑からシベリア流刑へと減刑したそうです。
さらに乃木将軍は、ステッセル将軍の残された妻と家族に私費で援助を送り続けたそうです。
戦後すぐに、旅順で戦死した兵隊をひとりひとりを弔問して周り、全国の主だった神社に慰安のための石碑を建ててもいます。
そのような人物であったからこそ、戦時中も戦後も、多くの兵隊に慕われ続けたのでしょう。
乃木大将は素晴らしい人物であったわけです。
GHQによって真っ黒になった教科書。
隠されてしまって、日を見ずにいる過去の日本の素晴らしい軍人たち。
戦争に行ったこともあり、産経新聞に勤めていたこともある司馬遼太郎さんがどうして乃木大将を悪く書いたのかは分かりません。