日露戦争

日本とロシアの国交のスタートは、日露戦争の丁度100年前から始まりました。

 

ロシ人の千島方面への航海は、1711年頃からのロズィレフスキーによるもので、国後島まで来ていたようです。

 

正式なものでは1804年9月、ロシアの皇帝アレクサンドル1世の命を受けて、全権大使のレザーノフが、ナジェジダ号とネヴァ号の2隻の戦艦で日本に通商を求めて長崎にやって来ました。

 

当時の日本は鎖国中。レザーノフの一行は、日本に7ヶ月間滞在しましたが、幕府の「のらりくらりの」の態度に翻弄されて、結局目的を達成できませんでした。

 

つまり厳密に言うと、その時点では国交はスタートしていないことになります。

 

ロシアの他にも当時、イギリス、スペイン、ポルトガルなどが同じように日本に通商を求めてやって来ていましたが、鎖国中の幕府はそれを受け付けませんでした。

 

鎖国の壁を破ったのは、その半世紀後のアメリカのペリーでした。

 

ウクライナへの侵攻で、ロシアのひどさは世界中に知られるようになりましたが、実はそれは昔から変わっていません。

 

レザーノフの来航後、1806年9月にロシア船ユノナ号が樺太の久春古丹に突如現れて、松前藩の番所を襲撃しました。

 

米や塩などの食料品を略奪した後、蔵を焼き払って逃げました。

 

その翌年、今度はアヴォス号を連れて来たユノナ号は千島列島の日本基地、択捉(エトロフ)島を来襲、内甫の番屋や蔵を焼き払い、5人の日本人を拉致。

 

沙那にあった幕府の会所を襲撃して樺太の久春古丹に上陸、松前藩の番所を再び焼き払いました。

 

その後も海上で航海中の日本船を襲撃して略奪、焼き討ちを繰り返した、まるで公立の海賊です。

 

この時点でレザーノフは既に亡くなっていましたが、彼の命令書には、

 

「アニワ湾で日本船を襲撃し、健康な人間を捕虜とし、彼らの所持品ともどもノヴォ = アルハンゲリスクに送還すること。上陸する必要がある時は、商店から米、塩、魚、商品を略奪し、店を焼き討ちすること」

 

となっています。そういう襲撃は、ロシアにとって有益な日本との貿易を実現する目的を持つショック療法だそうです。レザーノフ著「日本滞在日記」

 

元々領土拡大欲が強くて、国土は大きいものの、そのほとんどが北にあって、冬季に凍らない港を持たないロシアは、昔から常に南に向けて侵略を試みていました。

 

それで最初の戦争となったのが日露戦争でしたが、日清戦争も、その原因はロシアの侵略南下でした。

 

日本は過去に、大きく分けると日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦の四つの戦争を経験しています。

 

それは、ヨーロッパで起きた、信じられないほどの戦争の数と比べると、極端に少ないことが分かります。

 

それぞれの戦争に、それが起きた理由や背景がありますが、15世紀の末からの500年間の歴史を見ると、その四つの戦争が、全てつながって見えてきます。

 

ひとつひとつの戦争を個々に見るのは、木を見て森を見ないようなものですので、まずは是非一度、「15〜20世紀の歴史」をご覧ください。

 

 

いくつもの別々の民族、人種、国々が隣り合わせ、頻繁に戦争が起きて国境線が変わり続けた大陸とは違い、島国である日本は他の国から責められにくくはありましたが、それでも朝鮮半島は比較的に近くにあります。

 

その距離は、泳いで渡れる人もいるイギリスとフランスの約34kmよりも広くて約200kmあり、さらには風向きは変わりやすく、海流は速くて場所によっては暗礁や浅瀬、渦もあり、小さな船で渡るのは簡単ではありません。

 

それでも鎌倉時代、マルコポーロが蒙古で活躍していた頃、蒙古とその属国であった高麗の大軍に襲われたことがあるように、常に北からの危機を持ち続けていました。

 

 

朝鮮半島での鉱山採掘権や、朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得して影響力を増し、不凍港を求めてじわじわと南下して来るロシアに対して日本は、外交努力で衝突を避けようとしましたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増加させ続けました。

 

朝鮮半島が独立して、北からの脅威の緩衝地帯になってくれることを望んでいた日本は、それがかなわぬとみて開戦に臨みました。

 

日露戦争中の日本側には次の13か国から合計70名以上の観戦武官が来訪しました。

 

イギリス、アメリカ合衆国、ドイツ、オーストリア、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン(トルコ)。

 

イギリスからが最多で33名を数えた。アメリカからはマッカーサー元帥の父親であるアーサー・マッカーサー・Jrが赴任していた。

 

過去の歴史で、白人の国と戦争をして勝った有色人種の国は無く、世界中の誰もが日本の敗北を予想していた中、日本はその戦争に勝ちました。

 

その陰には、明治の日本の政治化、軍人に素晴らしい人が多かったことと、日英同盟、アメリカ、特にルーズベルト元大統領他、多くの支えと協力があったからです。

 

日本の勝利は、今まで白人に植民地化されて虐げられてきた多くの有色人種の他にも、ロシアの圧政に苦しんでいた東欧の人たちまでが喜び大きく勇気付けられました。

 

日露戦争の日本の勝利という衝撃を受けて、孫文は明治38年に来日し、東京で「中国同盟会」を結成、これが後に辛亥革命という、清王朝を打倒して中華民国を成立させる政治的原動力になってゆきました。

月刊誌「致知」2022年1月号、渡辺利夫他

 

 

ベトナムの対仏独立闘争の指導者、ファン・ボイ・チャウ、ビルマの対英独立闘争の指導者で僧侶のウー・オッタマは日露戦争を機に来日。ファン・ボイ・チャウは、フランスから独立する強い意志を日本人に熱心に説く。

 

そして「若者よ、日本に行って勉強しよう」という東遊運動を展開。

 

ウー・オッタマは後にビルマ独立闘争の指導者になるアウンサン将軍に強い思想的影響を与えた。

 

日露戦争の衝撃を受けてジャワ島で結成された「ブディ・ウトモ」という民族主義団体は、インドネシアの対蘭独立闘争の始まりとなる。

 

月刊誌「致知」2022年1月号、渡辺利夫

 

 

 

インド元首相ネルー

インドのイギリスからの独立に生涯をかけようと自分に決意させたものは、日露戦争における日本の勝利です。日本のように団結して事に臨めば、独立は必ずや可能になる。そのことを日本の勝利が教えてくれたのです」

月刊誌「致知」2022年1月号、渡辺利夫

 

 

 

 

セオドア・ルーズベルト 第26代アメリカ合衆国大統領
新渡戸稲造の武士道を手に取り、5人の子ども達に...:
「これを読め。日本の武士道の高尚なる思想は、我々アメリカ人が学ぶべきことである。 (中略) この武士道は、全部アメリカ人が修行し、また実行しても差し支えないから、お前達5人はこの武士道をもって処世の原則とせよ」
 
日露戦争のことを指して...:
「日本に同情を寄せている」  「今度の戦いは日本が勝つ」  「日本は正義のため、人道のために戦っている。ロシアは近年各国に向かって悪逆無道の振る舞いをしている。とくに日本に対しての処遇は、はなはだ人道に背き、正義に反した行為である。今度の戦も、ずっと初めから経緯を調べてみると、日本が戦をせざるを得ない立場になっている。よって今度の戦は日本に勝たせねばならぬ。そこで吾輩は影になり、日向になり、日本のために働く」

 
「日本賛辞の至言33選」波田野毅、ごま書房


ここまで親日な彼の従弟のフランクリン・ルーズベルトが、第2次世界大戦の際のアメリカ合衆国大統領であったことは、大変に皮肉なことでした。

 

 

 

柴五郎陸軍大将 (階級は全て最終階級)

日英同盟のきっかけを作った立役者としてイギリスでも有名。1900年、北清事変(義和団の乱)にて、欧米列強諸外国公使館を20万人の義和団が暴れて、ドイツ公使などが亡くなりました。

 

その後に襲ってきた約1万人の義和団から3千人以上の公使館員、クリスチャンをわずか500人足らずの柴五郎大佐率いる兵士で最後まで防ぎ守る。戦いで亡くなった部下の安藤辰五郎大尉の戦いざまは特にすさまじかったそうです。陸軍士官学校3期生で、秋山好古と同期。

 

「日本兵が最も優秀であることは確かだし、士官の中では柴中佐が最優秀と見なされている。日本兵の勇気と大胆は驚くべきものだ。わがイギリス水平がこれに次ぐ。しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」イギリス公使館の公使、ランスロット・ジャイル

 

「世界から絶賛される日本人」 黄文雄著 徳間文庫

 

「少なくとも500名 の兵を必要とする王府の城壁を守るのに、わずか十数人の義勇兵しかいなかったが、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。この小男は、 いつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下を組織化し、前線を強化した。彼はなすべきことは全てやった。自分はこの男に傾倒してしまった。自分は まもなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるであろう。 ...なぜか自分は日本兵のそばから離れることができなくなってしまった」
 

「小林寿太郎とその時代」 イギリス義勇兵、シンプソン

「世界から絶賛される日本人」 黄文雄、徳間文庫

クロード・マクドナルド

義和団の乱の際に、在中イギリス公使であったクロード・マクドナルド氏は、柴五郎中佐(当時)率いる日本軍のすさまじい戦い、強さに驚き感動して、「私たちが助かったのは、勇敢な日本人のおかげだ!」と言い、彼はその後に在日日本公使となり、1902年に日英同盟が結ばれることとなりました。

 

1904年から1905年の日露戦争の勝利は、この日英同盟によるイギリスの協力無しではありえませんでした。日露戦争の際に、イギリスは資金の援助だけではなく、情報提供、情報操作、ロシアのバルチック艦隊が遠路、日本に向かう間の燃料補給のための各寄港地、イギリスの植民地でのいやがらせなどを行ってくれました。

 

 

 

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