日本は過去に、大きく分けると日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦の四つの戦争を経験しています。
それは、ヨーロッパで起きた、信じられないほどの戦争の数と比べると、極端に少ないことが分かります。
それぞれの戦争に、それが起きた理由や背景がありますが、15世紀の末からの500年間の歴史を見ると、その四つの戦争が、全てつながって見えてきます。
ひとつひとつの戦争を個々に見るのは、木を見て森を見ないようなものですので、まずは是非一度、「15〜20世紀の歴史」をご覧ください。
いくつもの別々の民族、人種、国々が隣り合わせ、頻繁に戦争が起きて国境線が変わり続けた大陸とは違い、島国である日本は他の国から責められにくくはありましたが、それでも朝鮮半島は比較的に近くにあります。
その距離は、泳いで渡れる人もいるイギリスとフランスの約34kmよりも広くて約200kmあり、さらには風向きは変わりやすく、海流は速くて場所によっては暗礁や浅瀬、渦もあり、小さな船で渡るのは簡単ではありません。
それでも鎌倉時代、マルコポーロが蒙古で活躍していた頃、蒙古とその属国であった高麗の大軍に襲われたことがあるように、常に北からの危機感を持ち続けていました。
宗主国として朝鮮半島での影響力を引き続き保ちたい清国(現中国)と、南下政策を行うロシアを恐れ、朝鮮半島での清国の支配力を避けたく、朝鮮半島を大陸からの侵略に対する緩衝地帯として独立を望んだ日本との間で1894年7月から1895年4月の間で起きた戦争。
大陸側からの侵略を恐れた日本は、日本の国境や日本海がその境目では不十分であると考えて、朝鮮が清国の属国でい続けるのではなくて、朝鮮半島の独立を望んでいました。
もし朝鮮半島が清国に属するのではなくて独立すれば、朝鮮半島が日本への大陸からの脅威の緩衝地帯になるからです。
当時、朝鮮半島で起きて全半島に広まった甲午農民戦争という農民の反乱を自力で鎮圧できないと悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国に来援を求めました。
それを嫌った日本政府も、前年に締結したばかりの天津条約に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定。
李氏朝鮮及び清国は両国の撤兵を求めましたが、日本は李氏朝鮮の王族である高宗から朝鮮の独立と清国側の撤兵の依頼を受けて対立、日清戦争の始まりとなりました。
当時の清国は「眠れる獅子」と言われるほどの大国で、GDPはほぼアメリカと同じで日本の約5倍、兵力も約63万対約24万で、世界の予想の大半も清国の勝利でした。
但し当時の日本に滞在して日本海軍を視察したベルギーの特命全権公使、アルベール・ダネタン男爵は、勝つ方は日本であると確信していたそうです。