織田信長と、豊臣秀吉の時代が安土桃山時代と呼ばれ、その後に続いた徳川家康から15代続いた徳川将軍の時代が江戸時代なのは誰でも知っています。
そして室町時代から織田信長の時代が戦国時代と呼ばれています。
但し、その辺の区切方には意見が分かれるようです。
いずれにしても、スペイン、ポルトガル人の世界制覇、植民地主義の中で、白人が日本を見つけたのは最も遅く、日本が戦国時代の時でした。
鉄砲が初めて日本に伝わった時、優秀な鍛冶屋が呼ばれてすぐに日本製の鉄砲作りが始まりました。
その勢いは凄まじく、僅か数年で量産が始まり、日本が作っていた当時の鉄砲の数は、ヨーロッパ全体よりも多く、世界一となっていたそうです。
それでもその後は鉄砲の発達は止まり、日本人は刀に戻ってしまったのをご存知でしょうか?
そういう事実や、戦国時代の武士の戦いぶりを見て、当時日本に来始めていた西洋人の宣教師は、日本は侵略には向かない国であると本国に報告していました。
「日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。(中略) 国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服可能な国土ではない」アレッサンドロ・ヴァリニャーノ イタリアカトリック教会司祭(1539~1606)
織田信長は何しろ大の変わり者。珍しい西洋人にも、彼らが日本に持ち込む物にも興味を示し、彼らの宣教活動を許しました。
織田信長が明智光秀に討たれ、その明智光秀を討った、織田信長の筆頭子分であった豊臣秀吉が天下を継ぎ、彼も最初はキリスト教の宣教を許していました。
ところが、最初はイエスズ会だけであった宣教師の組織も色々と増えて、中には傲慢な者が現れたり、宣教師の組織同士で争い事が起き始めたそうです。
さらには、日本人を奴隷として海外に連れ出していることも判明するなど、宣教師が他国でも行なっていた悪行が日本でも行われているのが分かって馬脚をあらわし始めました。
さらには、宣教師とキリシタンになった日本人とが組んで、豊臣政権を転覆させようという悪巧みなども明るみに出て、豊臣秀吉は憤慨したそうです。
そこで堪忍袋の尾が切れた豊臣秀吉は、バテレン(宣教師)追放令などを出してキリシタン弾圧を始めたのです。
それは徳川家康にも引き継がれて、約260年間の長い鎖国に繋がりました。
日本が西洋の植民地にならないで済んだのは、豊臣秀吉、徳川家康を筆頭に、当時の強い武士たちのおかげであったと言えないでしょうか?