ポーランド

ポーランドは、実は驚くほど親日的だった。剣道など日本の武道がブームで、ポーランドきっての名門ワルシャワ大学の人気学科は、日本学科。その倍率は30倍を超える。

大学生は日本語がペラペラ、日本人顔負けの俳句を詠んでいた。さらに学生の家を訪ねると、食事は白いご飯に冷凍餃子、スーパーでは日清や味の素の即席麺が大人気で、食品メーカーの進出ラッシュだという。(ライター:okei)

1920年、孤児を助けた体験が語り継がれる。 第一次世界大戦後、ロシア革命の内戦中、多くのポーランド人はシベリアに抑留されていた。極寒の地で次々と命を落とす中、ポーランドは両親を失った子どもたちだけでも救おうと、救命嘆願書をアメリカやイギリスへ助けを求める手紙を出した(詳細はこのページの下部にあります)。

 

しかし返事は来ず、唯一返事をしたのが日本だった。そして1920年から22年にかけて計5回、765人の孤児たちが船で日本へ運ばれ、想像もつかないほどの温かいもてなしを受けたのだという。

 

到着直後のポーランド孤児たちはチフスを患い、頭にはシラミ、餓死寸前の子もいるという最悪の健康状態だったが、日本赤十字の看護師たちが懸命に看護した。全国から寄付も集まり、子どもたちは元気を取り戻す。

 

2年後、1人も欠けることなくポーランドに戻った孤児たちは、終生その体験を語り継いだという。ワルシャワ在住のジャーナリスト・松本輝男氏は、元孤児からの日本への感謝をこう語る。

「『日本は良い国、人道的、サムライ精神に溢れる国だ』と、こちらが気恥ずかしくなるような(絶賛した)表現をする。彼らはポーランド社会における親日感 の語り部。それがいまだにずっと残っている」 後に大統領になる「連帯」のワレサ氏は、1981年に「ポーランドを第二の日本にしたい」と語り、ポーランドでは誰でも知っている名言になっているとい う。

 

281社の日本企業が進出する「人の気質」 現在、ポーランドに進出している日本企業の数は、トヨタやブリジストンをはじめ281社。EU諸国への輸出の一大生産拠点となっている。

 

その理由として、ポーランドの「安定した経済」と「人の気質」が挙げられる。NSK(日本精工)副工場長の山下勝義さんは、ポーランド人社員の気質をこう語った。

 

「欧米の人は、もっと前に前に出る性格なのかと思っていたが、謙虚な所が多くて日本人と気質が良く似ている」 工場内では、日本式の「カイゼン」を習得すべく作業工程をビデオ撮影するポーランド人社員の姿があった。

 

懸命に細かな工程表とビデオをにらんで無駄の洗い 出しをする。現場マネージャーのバルテックさん(37歳)は、こう満足げに語っていた。

 

「日本式のやり方は僕を成長させてくれていると感じる。ずっと続けて行きたい。こんな風に家族も養えるしね」 さらに、日本の技術がポーランドのエネルギー危機を救う場面も。ポーランドでは電力の9割が石炭火力発電だが、今後EUが排ガス規制を強化する。

 

そこで三菱日立パワーシステムズは、排ガスを水蒸気に変える無害化装置を開発。EUの排ガス規制をクリアし、さらに他の国にも電気を売ることも可能となる。ポーランドの電力会社も「未来の基幹産業になりえる」と大満足だ。

 

重要性を増すポーランドの位置づけ 番組は最後に、ヨーロッパの工業の中心はポーランドであること、今後日本がドイツやロシア、更には北朝鮮とうまくやるために、ポーランドの位置づけが重要であることを伝えていた。

 

94年前に結ばれた絆が、今も日本とポーランドを深く結びつけている。日本も大正時代、決して豊かではない中で人道的に素晴らしいことをしていた。現在の親交を思うと、当時それを決めた日本人に感謝したい気持ちになる。

 

 

参考:
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog142.html

http://blog.goo.ne.jp/kimama08/e/d515a29933db7b6fe1af8875e3f77c4c

http://sahashipesu.blog.fc2.com/?mode=m&no=94

シベリア孤児救出の詳細:

 

1917年、ロシア帝国が革命で崩壊すると、各地で激しい内戦が繰り広げられました。

 

その混乱に乗じたポーランドは1919年11月に念願の独立を勝ち取りました。

 

それでも両国は交戦状態。シベリアには祖国に帰りたくても帰れない10数万人のポーランド人が取り残されていました。

 

その中でも特に親を失った孤児たちが一番悲惨でした。

 

そこで政治犯救済活動家のアンナ・ビエエウキエヴィッチが代表、ヨゼフ・ヤクブケヴィッチが副代表で、ポーランド救済委員会を設立。

 

親を失った孤児をシベリアから脱出させる活動を始めました。

 

脱出先とそのルートをいろいろと探した結果、各国の反応はとても冷淡だったそうです。

 

そこでメンバーの1人が言い出しました。

 

「日本に相談するのはどうだろうか? 私の叔父は、10数年前の日露戦争で日本軍の捕虜になり、日本に連れて行かれた。でも数ヶ月の捕虜生活の間、周囲の見知らぬ日本人にとても親切にされたことをよく私に話して聞かせてくれた。そんな日本人ならあるいは…」

 

それを聞いたもう1人も…

 

「そう言えば、ソビエト赤軍に敗れたチューマ司令官の義勇軍のために船を出し、新しく生まれ変わったポーランドに帰れるようにしてくれたのも日本だった」

 

アンナ代表は日本に行き、外務省で惨状を訴えました。必死の訴えは日本政府の関係者を動かし、外務省はただちに日本赤十字社に孤児救済を依頼。

 

56人の孤児を乗せた最初の船が1920年7月、ウラジオストクから敦賀経由で東京に到着。

 

その後計5回、1歳から16歳までの375人の孤児が日本に運ばれました。

 

孤児たちは誰もが青白く痩せこけ、病気で弱っている子供も多かったそうです。

 

淳賀に着くと着ている服を脱がせて熱湯消毒し、日本の浴衣を着せたそうです。

 

浴衣の袖の中に飴やお菓子をたくさん入れてもらったことを、最初の楽しい思い出として覚えている子どもが多かったそうです。

 

このシベリア孤児救出のニュースは日本中に広まり、貞明皇后も日本赤十字社病院を慰問、各地からは寄付金、玩具や人形、お菓子などが集まったそうです。

 

子供たちが健康を回復した翌年、横浜港から8回に分けてポーランドへの帰国事業が行われました。

 

その翌年もさらに390人の孤児が同じように日本に運ばれて、大阪市立公民病院看護婦寄宿舎に収容されて、元気になって祖国に日本の船で帰国しました。

 

元孤児のハリーナ・ノヴェッカさんは、当時のことを振り返り、日本をさる時のことを回想して…

 

「誰もがこのまま日本にいることを望んでいました。太陽がきれいで、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に…」

 

その後の元孤児らの日本訪問や日本との交流は続きますが、特に1999年8月に日本を訪れたジェチ・プオツク少年少女舞踊合唱団は、当時まだ生きていた元孤児から次のようなメッセージを伝えました。

 

「20世紀の初め、私たちポーランド孤児は日本の皆さんに救われました。シベリアの劣悪な環境から救い出し、日本を経て祖国に送り届けてくれました。

 

私たちは親切にしていただいたことを決して忘れません。この度の合唱団は私たちの感謝に満ちた想いを皆さんに届けてくれることでしょう。日本の皆さん、ありがとう」

 

他にも次のメッセージの数々が残っています。

 

「あんなに人から優しくされたのは初めてでした。日本の子供たちも私たちが寂しがらないように、一緒に遊んでくれました。それがとても楽しくて、仲良く遊んでいる間は両親のことも思い出さないほどでした。たった数ヶ月の滞在だったけど、日本は私たちの第2の故郷です」

 

「日本に着いた時、ひどい皮膚病にかかっていた私は全身に薬を塗られました。まるでミイラみたいに包帯を巻かれて、看護婦さんにベッドに運ばれました。その看護婦さんは私をベッドに寝かせると、包帯から顔だけ出している私の鼻に軽くキスをしてにっこり微笑んでくれました。それまでずっとひどい目にあってきた私は、このキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出してしまいました」

 

「どんなに優しくされても心細くてたまらなかった時、孤児収容所を慰問された貞明皇后に抱きしめてもらったことが今でも忘れられない」

 

「大阪カトリック司教団から孤児たちに贈られた、裏には日本語でお祈りの言葉が書かれてぼろぼろになったお祈り札、その聖母マリア様のお陰で長生きができたのです」

 

「シベリアでは食べるものがなくて、冬には雪を食べて我慢しました。だから、日本でお腹一杯食べられた時は本当に感激しました」

 

「動物園に連れて行ってもらったことを覚えています。見たこともないような珍しい動物を見てとても楽しかった」

 

「日本の夏は蒸し暑かったです。汽車に乗ったおじさんたちが、いきなりズボンを脱いでしまったのでびっくりしました」

 

私はとても痩せていたので、心配したお医者さんが特別に甘い栄養剤をくれました…」

 

「私は生きている間にもう一度、日本に行くことが生涯の夢でした。そして日本の皆さんに直接お礼を言いたかった。でももうその夢は叶えられません。だから大使から公邸にお招きをいただいた時、這ってでも伺おうと思いました。

 

だってここは小さな日本の領土なんですものね。今日ここで日本の方に、私の長年の感謝の気持ちをお伝え出来れば、もう何も思い残すことはありません。本当にありがとうございました」(身体が弱り、孫に付き添われて…)

 

「かってのシベリア孤児として、61年ぶりに皆様にお会いできたことを大変嬉しく思います。私の仲間の誰もが、ここでこうして感謝の言葉を述べたかったに違いありません。ですから私は今ここで、その仲間の分も一緒に心からのお礼の言葉を述べさせていただきます。本当にありがとうございました」

 

「日本とポーランドは全く縁故の遠い異人種で、遥かに隔たった地球の反対側に存在しています。しかし、不運なポーランドの児童に深い同情を寄せ、心よりの憐憫の情を表してくれたことを、ポーランド人は決して忘れません。

 

当時病院に見舞いに訪れた裕福な日本人の子どもが、ポーランドの児童の粗末な衣服を見て、自分の着ていた服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボンや櫛など、身に付けていたものをポーランドの子どもたちに与えようとしました。

 

小さな子どもでも迷わずそうしたのです。しかしポーランド国民もまた高尚な国民であり、いつまでも恩を忘れない国民であることを日本の人たちに知っていただきたい。ポーランド国民は日本に対して、最も深い尊敬、最も温かい友情と愛情を持っていることをお伝えしたいと思います」

 

この言葉は、実はその後阪神大震災の時に実現されました。

 

「震災で両親を失い、悲惨な目にあった被災児たちを、ポーランドに招いて慰めることは出来ないか?」

 

ということで、ポーランド科学アカデミーの物理学者、スタニスワフ・フィリペック博士が「日本・ポーランド親善委員会」を立ち上げて、60人の被災児の傷ついた心を癒すためにポーランドに招待しました。

 

その最後には、両国の孤児たちが集まるパーティーが行われました。

 

その時に、元シベリア孤児として兄弟で助けられた男性が挨拶をしました。

 

「私と弟の人生は、75年前に日本の皆さんに助けられて授かったものです。いつか恩返しがしたいとずっと考えてきました。皆さんの身に起こった不幸(阪神大震災)を思うと、慰める言葉も見つかりませんが、私たちは日本人から受けた親切をずっと宝物のように思って生きてきました。弟も同じ気持ちでしたが、その弟はつい2日前に亡くなりました。彼もきっとここで、皆さんに自分の体験をお話ししたかったろうと思います」

 

「今日はどうしても(このパーティーに)行きたい。75年前の自分と同じような子どもたちがポーランドに来たからには、私たちがかってどのように助けられたか、どんなに親切にされたか、是非私の口からお話ししたかった」

 

1993年から4年間、駐ポーランド大使を務めた兵藤長雄は、イギリス留学時代に元ポーランドの陸軍将校だったロシア語教師に息子のように可愛がられた経験があります。その恩師の父は、日露戦争で捕虜となったが、収容先の松山で大変親切にされたため、『父はいつも日本人に出会ったら出来るだけ親切にして恩返しをして欲しいと話していた』のだといいます。そのことが彼を親日家にさせていました。

 

兵藤元大使がポーランドに住むようになると、「なぜ日本人に親切なのだろう」、「どうしてこんなに親日なのか」と思うことが多かったそうです。

 

初対面でもこちらが日本人だと分かった途端に親近感を示し、好意的になるという体験を何度もしたそうです。

 

それまでは知らなかったシベリア孤児救出の話を知って、公邸に既に80歳以上になっていた当時の孤児たちを招いたそうです。

 

そしてそれは兵藤元大使にポーランドの親日の原点についての本、「善意の架け橋、ポーランド魂とやまと心」(文藝春秋社)を書かせることになったそうです。

 

元シベリア孤児で最後の1人となったアントニーナ・リコさん、当時3歳で2002年に85歳となっていた時に、ポーランド(、チェコ、ハンガリー、オーストリア)を公式訪問した平成天皇、皇后に謁見しました。

 

その後リコさんは「日本は天国のような所だった」という言葉を残して2006年の時に90歳の生涯を閉じました。

 

出典: 四條たか子著、井沢元彦監修、「世界が愛した日本」武書房

 

 

 

このシベリア孤児のお話しを知っている日本人はほとんどいません。

 

ですがポーランド人の間では意外と知られているお話しで、それは前述の「ポーランド国民もまた高尚な国民であり、いつまでも恩を忘れない国民であることを日本の人たちに知っていただきたい」という言葉を証明しているかのようです。

 

 

 

ポーランドは、ロシア、ドイツ(プロイセン)、オーストリアという強国に囲まれ、その圧力に翻弄され続けた歴史があります。18世紀後半には列強に分割されて、国家消滅という事態に陥ったほどです。20世紀前半は、帝政ロシアの圧政に苦しんでいました。

 

そうした中、日本は1905年に日露戦争でロシアに勝利。極東の小国が自分たちを支配する大国ロシアを打ち負かしたということで、ポーランド人は歓喜に沸いたそうです。日露戦争ででは、数千人のポーランド兵がロシア軍に召集されていましたが、日本は彼らを捕虜とした後手厚く保護し、祖国へと帰還させています。

 

この措置により、憎きロシアを破ったヒーローとしての日本の好感度が、さらに高まりました。そして1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、ポーランドはロシア軍とドイツ軍の戦場となり、多数のポーランド人がシベリアへと逃げました。

 

その数は20万人とも言われています。そして1917年にロシア革命が起きると、状況はますます混乱して、シベリアのポーランド人は荒野で餓死、病死、凍死と次々に命を落としてゆきました。挙兵したポーランド人もいましたが、ロシア軍には全く歯が立たず、窮地に追い込まれていました。

 

この絶体絶命のポーランド人たちに救いの手を差し伸べたのが日本でした。まず日本軍が、ロシア軍に追い詰められたポーランド人部隊を救助、シベリアから祖国へ送り届けました。そして日本は、ポーランド孤児たちの救済も行いました。

 

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