東日本大地震の時にブータンはすぐに100万ドルの義援金を送ってくれました。
人口僅か76万人の貧しいブータンにとって、この金額はそう簡単に出せるものではありません。
翌年には、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王自ら主催者となり、国をあげて供養祭を催してくれました。
ブータンには実は、海外青年協力隊も含めて、多くの技術者や学者が行っていますが、その中でも最も有名なのが西岡京治さんです。
戦後、援助される立場だった日本が復興して国際協力するようになったコロンボ・プランで、最初に海外に送り出した数人の専門家の一人が、開国したばかりのブータンに派遣されたのです。
空港どころか車道もなかったブータンに、ロバの背にのって赴任した西岡専門家は、その後亡くなるまでの28年間活動し、ブータンの農業に大革命を起こしました。
それは収量の多い、美味しい、多様な品種や農法が、彼を通して紹介されたのですから、農民が9割を占めるブータン人にとっては神様だったでしょう。
彼は外人初の貴族に任ぜられ「ダショー(貴族の敬称)・ニシオカ」として、ブータン全土の尊敬を集めました。 彼が亡くなられた時には、数千人が集まって国葬が行われました。 彼に10年遅れて協力隊が派遣され、1年後に私も赴任しました。
ブータン人は「日本人は何でもできる」と信じ、建築家である私に吊り橋の設計や山奥の再開発の依頼が来て、ブータン全土の西の端から東の端までローカルバスで駆け回って設計しました。 (時には徹夜で製図し驚かれました)
まさか電気もないヒマラヤの山奥でヘッドランプを着けて徹夜するとは思いませんでした。
ブータン人が最初に出会った日本人が、使命感に燃えた西岡専門家であり熟練の協力隊員(初派遣の国だったので私含め二度目の参加の隊員が多かった)であったのだから、“日本人伝説” が生まれて当然です。