第二次世界大戦の時、「生きて帰れぬ最後の激戦地」と恐れられたパプアニューギニアですが、ニューギニア戦に動員された日本軍約15万人のうち、終戦時に生き残ったのは、わずか1万人ほどにすぎませんでした。
そのパプアニューギニアを今日訪れると、子どもたちは何と…: 「雨々ふれふれ母さんが、ジャノメでお迎え嬉しいな…」と日本の童謡を歌い、日本のあやとりで遊んでいる光景を目にします。
なぜでしょうか?
パプアニューギニアの人たちににとっては昔、忘れられない日本人がいました。パプアニューギニアの親日感情を植え付けたと考えられるのはその人です。
それは当時、「キャプテン柴田」と呼ばれていた、若干23〜25歳の旧日本軍の船舶工兵第九聯隊(上陸用舟艇部隊)陸軍中尉、柴田幸雄さんです。
柴田幸雄中尉は、現地住民宣撫の任を帯びて、ウエワク東方にあるカウプ(コープ)に赴任しました。占領地域などで、日本政府の方針を知らせるなどして、人々を安心させる役割です。
カウプ一帯の部族を日本軍に協力させるとともに、白人支配からの独立と日本の通過部隊から村を守るための自治組織(カウト政庁)樹立を指導しました。
ところが日本軍は食糧難に陥り、部隊は飢餓にあえぎました。そこへ地元の住民が食糧を提供してくれたのです。餓えた日本兵を村に住ませ、食料を与えるなど、手厚く協力してくれました。
そこで柴田中尉は、住民への感謝の気持ちと、将来の独立にそなえた教育を志し、酋長の賛同を得て学校をたて、子供たちに数や初歩の日本語、英語の教育を行いつつ、植民地からの独立を説きました。
オーストラリアによる植民地支配を嫌う多くの住民、特にセピック河流域や山南地区の人々などは教育を受けていませんでした。
パプアニューギニア国全体で就学率が2割程度の中、その村では6歳から16歳まで全員が教育を受けるようになりました。
子どもが大好きだった柴田さんは屋外で授業を行い、午前と午後合わせて50人近い子どもたちに、地面に字や絵を書いて教えました。
そして特に「自分たちの国を創れ!」と、独立心を教えたそうです。
その子どもたちの中に、マイケル・ソマレという、当時8才の子どもがいました。彼は大きくなるとパプアニューギニアの独立運動のリーダーになりました。
そして1975年、パプアニューギニアはオーストラリアから独立して、ソマレさんは初代の首相になり、その後5期も首相を務め、「祖国の英雄」とされます。
ソマレさんは、村の子供たちを集めたその学校で言いました:「文字を書けるようになり、本を読めるようになったらどんなに人生が変わるかを柴田中尉から教わった。教育を受けたことによって自分は首相になれたんだ。人生で何をすべきかを柴田先生に教わった。独立する考えはそこから生まれた」
キャプテン・シバタの教えによって独立することができたと考えたソマレ首相は戦後、大使館を通じて当時宇都宮市で飲食店を営んでいた柴田氏を探しあて、昭和60年に念願の再会を果たしました。
その後もソマレさんは日本を訪れて、柴田さんが93年に亡くなるまで親しく交流しました。
ソマレさんは2006年に来日し、東京国際大学より名誉商学博士号を贈られ、2015年には旭日大綬章受章。
日本船舶振興会(現日本財団)の初代会長であった笹川良一が遺骨収集のためにラバウルを訪問した際にも協力。笹川さんもソマレを支援するようになり、そのような縁から長男を「リョウイチ」と名付けました。
柴田さんの他にも、人間魚雷「回天」の元乗組員川端静さんも有名です。川端静さんは戦後に現地に残り、激戦地跡にNew Wewakホテルを再建。ホテルのオーナーとして、現地の人を多く雇って雇用を創出。生活の向上に貢献してきました。そのため、地元では「ビッグマン」と呼ばれ慕われています。
その後パプアニューギニアでは、驚異的な経済発展とともに環境破壊も進み、森林率が国土の9割から6割へと減少してしまいました。
海外輸出用の森林伐採と焼き畑農業が原因でした。そこで、日本のNGO「オイスカ」が日本の農業を教え、焼き畑式からの脱出を図っています。
また、漁業を振興するため、武藤優さんたちが立ち上がり、日本式漁業を地元民に教え、付加価値のある天然エビを日本へ輸出しています。
「あの国」はなぜ日本が好きなのか「ニッポン再発見」倶楽部
パプアニューギニアと日本 キャプテン柴田 ソマレ大統領 経済発展の陰に友情
https://ameblo.jp/nysouji/entry-12127399742.html
海外戦没者慰霊巡拝
http://www.gokoku.gr.jp/junpai/source_004.html
Wikipedia
「あの国」はなぜ日本が好きなのか「ニッポン再発見」倶楽部