ドイツと日本の国交は、日本の開国の頃、1861年、ドイツがまだ国として成り立っていない頃のプロセインとの日・プ ロ イ セ ン 修 好 通 商 条 約 から始まりました。
徳川綱吉にも謁見した博物学者エンゲルベルト・ケンペルの見聞記『日本誌』(1727)は、欧州での日本のイメージに影響を与えました。それを読むと当時の日本の様子が分かりますが、特に次のことは突筆に値します。
「よく団結し、親和的で、神々は当然崇敬すべく、法律は当然遵守すべく、主君には当然服従すべく、隣人は当然愛し尊敬すべく教え込まれていて、慇懃、懇篤、高潔である。美術工芸の面では他の全ての国民を凌駕している」
また、1876年から1905年まで日本に滞在したエルヴィン・フォン・ベルツ ドイツ医師(1849~1913)は…:
「...それに入り乱れて行きこう全てが、何と静粛で整然としていることだろう。乱暴な行為もなければ、酔漢の怒鳴り声もしない」
「...行儀の良さが骨の髄まで染み込んでいる国民だ」
日本とドイツは、第一次世界大戦では敵国同士になってしまいましたが、そんな時にでも捕虜としてドイツ人が収容された板東俘虜収容所での美談が残っているほどです。
第一次世界大戦の時に日本で捕虜となったドイツ兵士によって、日本にバウムクーヘンやソーセージ等がもたらされました。
国交再開後は学術交流が盛んになり、哲学者の三木清や田辺元ら 多 く の 学 生 が 留 学 。
ドイツからはノーベル賞科学者のアルベルト・アインシュタインやフリッツ・ハーバーが来日しました 。
アインシュタインが日本について残した言葉(リンク)も是非一度知っておいてください。
当時、製薬会社を経営していた星一は、敗戦で財政的に困っていたドイツの科学研究を支えるために、私費を投じてハーバーらの援助を続けました。
開国間もない日本は、260年間の鎖国の間の遅れを取り戻すべく西洋をお手本にしましたが、軍の士官候補生や医学生など、ドイツに留学する日本人も多く い ま し た 。
陸軍軍医として留学した森鴎外が、ドイツでの体験をもとに小説「舞 姫」を執筆したことは有名です 。
北里柴三郎はベルリン滞在中に、世界で初めて血清療法を開発して、第1回ノーベル賞の候補 となりました 。
また、ライプチヒの市立音楽院で学んだ作曲家の滝廉太郎は、日本初のピアノ留学生です。
第二次世界大戦では同盟国として一緒に戦ったので、1980年頃まではドイツでパブに入ると、お年寄りから「あなたは日本人か?」と聞かれることがあり、「はい」と答えるとビールをご馳走してもらえるなどというエピソードもありました。
日本をお手本にしたマイセンの磁器:
昔からヨーロッパでは、遠く日本や中国からもたらされる磁器は 白い金」と呼ばれ、王侯貴 族 の 富 と 権 力 の 象 徴 で も あ り ま し た 。
自国で美しい磁器を作れないものかと、ザクセン公国の王に命じられた 錬 金 術 師 ヨ ハ ン ・ フ リ ー ド リ ッ ヒ ・ ベ ト ガ ー が 、1 8 世 紀 初 め に 欧 州 で 初めて白磁の磁器の製法を解明したとされています。
有田焼の影響 を 受 け た 初 期 の 絵 柄 か ら 、ヨ ー ロ ッ パ ら し い デ ザ イ ン ま で 、マ イ セ ン磁器は日本でも幅広く 愛好されています。
出典: 外務省資料https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/pamph/pdfs/j_germany03.pdf
今日でもドイツ人はとても親日ですが、このサイトの管理人である私の個人的なエピソードとしては、次のような体験があります。
ある日、デュッセルドルフの町中を歩いていた時です。夕立の天気予報を知っていたので、大きな傘を持って歩いていました。
案の定、急に大雨が降ってきました。その時少し離れた所に、車椅子に乗った老女をおばさんが押していましたが、傘を持っていませんでした。
こちらの傘は大きいタイプでもあり、当然のごとく傘を差しかけて少し一緒に歩いてお送りしたのです。
その時に言われたのが次の言葉でした。
「あなた、日本人でしょ?」
「はい」
「日本人って優しいのよね…」
国旗の重み ~板東俘虜収容所 第一話~
観光客として日本滞在中に東日本大震災に襲われたドイツ人家族のお話し