世界屈指の親日国といわれるトルコは、その評判に違わずあたたかいおもてなしが受けられる国。イスラム教には「旅人に親切にせよ」という教えがあるからか、もともと旅行者に親切な人が多いトルコですが、日本人とわかるとさらに歓待してくれることが少なくありません。
通りすがりのカフェや土産物屋、食事をしたローカルレストランで、無料でチャイを振る舞われた経験は数知れず。日本人だからと特別に宿泊費を安くしてくれたり、ランチを半額にしてくれたりしたこともあります。
それに加え、日本や日本人への賞賛を聞かされることもしばしば。世界各国からの旅行者を迎えているアンタルヤで宿泊したホテルのオーナーは、「日本人は勤勉で親切。我々がお手本にすべき人たちだ。」と語ってくれました。
トルコにおける親日感情は、1889年のエルトゥールル号事件に端を発するといわれます。当時トルコが明治政府に派遣した親善使節約600名を乗せた船が台風に遭遇して沈没。近隣住民が必死で救援活動を行った後、明治政府が69名の乗員をトルコまで送り届けたのです。
エルトゥールル号はまず明治天皇を訪問。トルコ皇帝のアブデュル・ハミト2世から託された親書と、トルコ国最高勲章、贈答品などが献上されました。
訪問の理由は、その3年前に明治天皇の伯父である小松宮顕仁親王殿下が欧米諸国を歴訪した際に、日本の皇室として初となるトルコ親善訪問を行い、その時に受けた心のこもった歓待を知った明治天皇が、「大勲位菊花大綬章」をトルコ皇帝に送っていたからでした。
それに感激したハミト2世が日本との友好を深めるべく使節団の派遣になりました。
エルトゥールル号の悲劇は、使節団が明治天皇を訪問した後、帰途に着いた時に起こりました。1890年9月16日、エルトゥールル号が和歌山県南端の海上に浮かぶ大島沖にさしかかった時でした。
付近は熊野灘と呼ばれて海上に岩礁が突き出ている難所で、台風が近づいていたことから海上は荒れていて、エルトゥールル号は難破してしまいます。
多くの乗組員は一瞬にして命を落としてしまう怒涛の中でも、一部のトルコ人が岸に泳ぎ着きました。
泳ぎ着いた大島の岸は崖の下。比較的に体力が残っていたひとりが何とか崖をよじ登り、島の若者に発見されます。
その日と翌日の両日、通信期間もない離島の沖周村長の陣頭指揮の元、島民による救援活動が行われました。
現地に残る史料によると…:
「まず生きた人を救え! 海水で血を洗い、兵児帯(男子や子どもが用いる帯)で包帯をし、泣く者、喘ぐ者を背負って二百尺(約60メートル)の断崖をよじ登る者は無我夢中である… とにかく生存者79名(実際には69人)を小学校と大龍寺に収容した」
生存者を引き上げた後の島民たちの対応も迅速かつ適切で、冷え切った身体を人肌で温め、サツマイモや鶏を与えて精をつけさせました。
その後遭難者は、神戸から救助に向かったドイツ艦「ヴォルフ号」と、明治天皇の指示によって送られた日本海軍の軍艦「八重山」の2隻によって神戸に運ばれて、設備の整った病院に収容されました。
遭難者はその後、元気を取り戻した後に海軍兵学校の「比叡」と「金剛」という練習艦で無事にイスタンブールに送り届けられました。
その時の少尉候補生の中に、あの秋山真之がいましたが、到着した先のイスタンブールでは大歓迎されたそうです。
ことはそれだけでは終わらず、この悲劇を知った多くの日本国民から義援金が集まり、それは野田正太郎という記者によってトルコまで運ばれ、1892年にも東京都民から集められた義援金が山田寅次郎によって送り届けられています。
さらには、大島付近の海底に沈んだ遺品も、各地から集まった潜水の専門家によって集められ、明治政府からフランス汽船に託されてトルコに返還されました。
こうした行為にハミト2世は、侍従武官のアフメット少佐を答礼のために日本に派遣して、明治天皇にトルコ産の名馬を贈呈していますが、本当のお礼は、1985年のイラン・イラク戦争下で起こりました。
フセイン大統領が、上空を通過する飛行物体は全て撃墜すると宣言してテヘランに残された200人以上の日本人をトルコ航空が危険を顧みずに救出。それに対し、当時の駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」とコメントしています。
1985年のイラン・イラク戦争下では、テヘランに残された200人以上の日本人をトルコ航空が危険を顧みずに救出。それに対し、当時の駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」とコメントしています。
その後に起きた日露戦争での日本の勝利に最も喜んでくれた国のひとつが、ロシアに苦しめられてもいたトルコでしたが、その当時にトルコでは子どもが産まれると、「Togo(東郷海将)」あるいは「Nogi(乃木陸将)」と名づける親が多くいたと言われるほどです。
当時は1890年、もしそう名付けられた人がいても、生きているとすると現在130歳になっていることになり、その事実は私も数人の知人のトルコ人を通じて調べてみましたが、見つけることはできませんでした。
ですが今日、有名な映画スターの名前を自分の子供につける親がいくらでもいることから、このお話しはあながち単なるフィクションとは思えません。
https://tabizine.jp/2018/09/04/201208/
占部賢志著「美しい日本人の物語」
エルトゥールル号の遭難以来、友好関係を深めていた日本とトルコ。両国の絆がより深まった出来事が2013年にありました。
トルコの首都イスタンブールは、ボスポラス海峡を挟んでアジアサイドとヨーロッパサイドに分かれ、海峡を渡るにはフェリーに乗るか、二本しかない橋を利用するしかなく非常に不便で、交通渋滞も日常的に発生していました。
海峡横断トンネルを建設する計画もありましたが、潮流の速さと水深の深さが高いハードルとなっていて、設計図が描かれてから150年もの間、実現できていませんでした。
ですが、そのプロジェクトに大成建設が名乗りをあげました。大成建設はトルコ企業と協力して、ボスポラス海峡の地下整備事業を展開。他国の追従を許さない高度な技術を用いて、海峡横断トンネルを完成させました。
トルコの「150年の夢」が、日本人の手によって実現しました。
「あの国」はなぜ日本が好きなのか「ニッポン再発見」倶楽部