アフリカにも、特にODAの関係で、親日国が数ヶ国ありますが、ガーナが親日であるのには、2人の日本人の存在があります。
ひとりはあの有名な野口英世、もうひとりは竹辺寛則さんという人です。
野口英世は世界的な細菌学者ですが、若い頃に渡米してロックフェラー研究所で研究員になり梅毒の病原菌を発見したことで有名です。
その後、アフリカや中南米で流行していた黄熱病の研究で1927年にガーナに行きました。
黄熱病は蚊が媒体する重篤な感染病で、発症すると発熱、黄疸、肝臓や呼吸器の機能低下、嘔吐といった症状が出て死に至ります。
野口英世はワクチンや血清の精製に成功していたものの、なぜかそれがアフリカでは効かないので、現地に行って研究したのです。
そして現地で血液採取をしていて自分も感染してしまいました。そしてその翌年に病状が悪化して、51年の生涯を閉じました。
ガーナがイギリスから独立を果たすと、1979年には日本の援助により、ガーナ大学医学部に、「野口英世記念研究所」が設立されました。
さらには野口英世が研究をしていた病院では、彼の功績を称えて研究室がそのまま保存されることになりました。
その後、野口英世記念研究所は1986年には、エイズウィルスII型を発見しました。
2002年にはガーナのクフォー大統領夫妻が来日し、野口英世の生まれ故郷である福島県の野口英世記念館を訪問しました。
そこで大統領は、「ガーナと日本の友好関係は、野口博士なくしては語れない」と、野口英世の功績を改めて称賛しました。
そして竹辺寛則さんの方は、1986年に海外青年協力隊の一員として、野口英世が研究していたアクラから西に120キロほど離れたアチュワ村に派遣されました。
アチュワ村は自給自足の村で、現金収入の手立てがありませんでしたが、それを改善するのが彼の使命でした。
竹辺寛則さんは、養鶏とパイナップル栽培で生計を立てられるようにしようと奮闘しましたが、養鶏の方は多額の費用がかかって失敗しました。
パイナップル栽培の方も、賛同者が少なくて大変苦労しましたが、マラリアにかかっても畑に出て働く竹辺寛則さんの姿に村人たちは心を打たれて協力してくれるようになりました。
信頼を得た竹辺寛則は、若干26歳で何と村の長老に選ばれました。外国人が長老に選ばれるなどというのは勿論前代未聞でした。
ですが彼はその後間もなく交通事故で亡くなってしまいます。その半年後にはパイナップル栽培が大成功を収めて、アチュワ村のパイナップルは現在ヨーロッパにも輸出されるまでになりました。
村には竹辺寛則さんを顕彰する「タナベガーデン」という名の記念公園があり、村を大きく発展させた彼の功績を称えています。
「あの国」はなぜ日本が好きなのか「ニッポン再発見」倶楽部