ウズベキスタン共和国の首都タシケントにある国立ナボイ劇場は、レンガ造りの三階建て観客席1400の建物で、市中心部の代表的建造物として威容を誇っている。
この劇場正面には、「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語で表記されたプレートが設置されている。
ウズベキスタンには大戦後、ソ連によって約2万5千人の日本人抑留者が移送され、水力発電所や運河、道路などの建設にあたった。中山恭子元駐ウズベク大使は在任中に、いまも国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会った。この人物は、まじめに、そして懸命に汗を流していた日本人抑留者たちの思い出を涙ながらに語ったという。
捕虜の境遇にあっても勤勉に働く日本人抑留者は、当時の地元民に敬意を表された。現地の人は、「絶対に帰れる」と励ましながら、黒パンを握らせてくれたという。
日本人抑留者が現地に残した遺産のシンボルが、約500人の抑留者によって2年がかりで建設したナボイ劇場なのである。レンガ製造から館内の装飾、彫刻まで抑留者が行った。
66年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際も、この劇場はビクともせず、「日本人の建物は堅固だ」「日本人の建築技術は高い」という評価が定着した。そのためか親日感情が強い中央アジア諸国の中でもウズベキスタンの日本人への好感度は飛び抜けている、という。
1991年に旧ソ連から独立して新国家建設を進めるウズベキスタンは、カリモフ大統領をはじめに日本の明治維新や戦後復興をモデルとして「日本に見習え」を合言葉にしている。
劇場前のプレートの表記についてはカリモフ大統領が、「決して日本人捕虜と表記するな。日本とウズベキスタンは一度も戦争していない」と厳命したそうである。
2万人の抑留者のうち、800人以上が現地で死亡し、各地の墓地に埋葬されたが、その多くは荒れ放題となった。しかし、元抑留者たちが中心となって募金活動を行い、ウズベキスタン政府の協力も得て、日本人墓地が整備された。
「日本に帰ってもう一度、花見がしたかった」と言い残して亡くなった抑留者のために日本からサクラの苗木千三百本が送られた。整備の発起人の一人、中山成彬衆院議員は「両国友好の証しになってほしい」と話している。
過酷な環境の中で祖国帰還を夢見ながらも、勤勉に働いて、ウズベキスタンと日本との友好の絆(きずな)を残してくれた抑留者の御霊に感謝と追悼の意を捧げたい。
ウズベキスタンという国名を聞いても、それがどこにあるのか、そしてそれがどんな国なのか、よくわからないという人が少なくないことでしょう。
ウズベキスタンは中央アジアに位置するイスラム教の国。
日本人にとってはメジャーな旅先とはいえませんが、実際にウズベキスタンを訪れてみると、日本人に好感や敬意をもつ人々が多いことに気づかされます。
ローカルマーケットに出かければ、喜んで写真に納まってくれたり、ウズベキスタン独特の大きなパンを焼く様子を見せてくれたり・・・何人ものウズベキスタン人から、「日本はいい国だ」という声を聞きました。
ウズベキスタンで親日感情が広まったのは、第二次世界大戦後、シベリアなどから2万5000人の日本人抑留者がウズベキスタンに移送されたことに関係するといわれます。
首都タシケントでは、日本人抑留者が国立オペラバレエ劇場の「ナボイ劇場」の建設に携わった結果、短期間で完成し、地震でも無傷だったことから、強制労働でも手を抜かない日本人の真面目さに尊敬の念が生まれたとか。
ウズベキスタンの一般庶民の多くがこのエピソードを知っているかどうかといえば疑問ですが、「日本(人)はなんとなくすごい」と思っている人は少なくないようです。
https://tabizine.jp/2018/09/04/201208/
ウズベキスタンの小学校の教科書にはある日本人のことが書かれています。
それが加藤九作です。彼は三蔵法師ゆかりの地であるシルクロードの要所、テルメズで仏教遺跡を発見しました。
亡くなった時には”国民の損失”と政府がいうほど、ウズベキスタンで敬愛されている人物でした。