マラドーナやメッシのサッカー選手の国ですが、日本でも多くのアルゼンチンサッカー選手が活躍してきましたが、アルゼンチンの親日感情もかなり強いです。
その理由はブラジルと同じで、19世紀の日本からの移民です。
当時ブラジルと同じように働き手を求めていたアルゼンチンには、開拓移民だけではなく企業家や技術者も多く集まりました。
イタリアやスペインなどのヨーロッパからの移民が集まり、明治時代には世界有数の富裕国になっていました。
日系移民の中でも、日本人移民第1号のひとりで、武士の出の牧野金蔵さんが現地で特に有名です。
牧野さんはアルゼンチンで機関士として働きましたが、とても真面目で誠実、家庭でも優しかったそうです。
その人柄は、周囲のアルゼンチン人たちが尊敬するほどで、それが日本人全体に対するイメージにつながっていったと言われています。
基本的に日本人は世界でも抜きん出た真面目で謙虚な国民なので、牧野さん以外の日本人も好感を得られて親日度が高くなりました。
そしてファン・ドミンゴ・ペロン第29/41代大統領がとても親日的です。
ペロン元大統領は、日系アルゼンチン人を重用し、第2次世界大戦中にも、対日戦参加へのアメリカの誘いを断り続け、日系人を強制収容したり財産没収をしたりなどの弾圧を行わなかった(※)ことから見ても、アルゼンチンが昔から親日国家であったことが分かります。
※ ただし、日本語教育や日系人の集会などは禁じられた。
戦後には物資不足にあえぐ日本に大量の救援物資を送ってもくれました。
ペロン大統領のエバ夫人は、幼少期に日本人に親切にされたことがきっかけで親日になったそうです。
「日本人のように真面目に働くように」と国民に呼びかけていたそうです。
アルゼンチンは、沖縄県系人の方が多く、他の南米諸国から転住してきた人も多数います。その多くは、花卉栽培やクリーニング業に従事しました。
彼らが基礎を築いた花卉栽培は今日、アルゼンチンの産業のひとつであり、日系人の貢献がよく知られています。
欧州系移民が多いアルゼンチンにおいても、「日系人は正直で勤勉」という印象が浸透しています。
移住者たちが営んでいたクリーニング業が、納期厳守でお客本位の誠実な接客であったことも、その背景にあることは間違いありません。
さらに近年は、日本のMANGAが若者たちに受け入れられ、ますます日本文化に対する関心が高まっています。
空手や柔道、合気道といった武道も人気があります。忍術を教える教室があるのには驚きました。
その他、文化刺繍や墨絵、折り紙などの教室もあり、日本人以上に日本の文化に親しんでいるかも・・・と思うほどです。
日本料理店に行けば、たいてい日本びいきなアルゼンチン人のグループに遭遇します。
アルゼンチンの中のニッポン〜日本文化に親しむ若者たち〜
https://m-tokuhain.arukikata.co.jp/buenos_aires/2009/10/post_26.html
「あの国はなぜ日本が好きなのか「ニッポン再発見」倶楽部
1903年12月、日露戦争の直前に、海軍の軍備を増強しなければロシアに負けてしまうと焦っていた日本は、イタリアの造船所で作られ完成したばかりのアルゼンチンの軍艦、モレノ、リヴァダヴィサの2隻を購入、それぞれ日進、春日として日本の軍艦にしました。
これらの軍艦の購入はロシアも狙っていたものの、同盟国であるイギリスの仲介、骨折りによって日本が購入できました。交渉に当たったのは、当時ブラジル公使を務めていた堀口九蔓一でしたが、こんなところにも親日度が現れています。
歴史上ほとんど接点がなかったかのように思われるアルゼンチンと日本ですが、明治時代からアルゼンチンへ移り住んだ日本人がいました。
その頃アルゼンチンは、ヨーロッパの移民により世界有数の豊かな国に発展しており、夢を抱いて向かう新天地としてふさわしい国でした。
そして日本とアルゼンチンを繋ぐきっかけとなった記念すべき日本人移民第一号の方は、明治維新によって日本を飛び出した旧旗本の武士、牧野金蔵さんでした。
「日本人移民第一号、牧野金蔵さんの息子さん、ペドロさんにお会いしました。
101歳のご高齢と聞いていたので、ご本人を目の前にした時は信じられなかったです。
シャンとなさっていて、キチッとスーツを着ておられて、しっかりとお話になる。カッコよかったですね。
ペドロさんにとってお父様の金蔵さんは、今なおヒーローのような存在のようです。
金蔵さんは、真面目に働き、当時花形職業だった機関士になり、子供たちにも優しく家族を大切にした方だったそうです。」
移民をした方のお話というと、壮絶な苦労をイメージしてしまいますが、アルゼンチンでは必ずしもそうではないのですね。
「移民の研究をしている先生にも伺ったのですが、アルゼンチンは稀にみる国だそうです。
当時から人種による差別がなく、個人の努力を正当に評価してくれる国だったそうです。
また日本からアルゼンチンへ渡った人たちは、技術者や企業家なども多く、政府が斡旋した開拓者としての移民ではなかったことも大きいですね。
とは言うものの、日本から一番遠く、言葉も文化も違う異国で働き生活をするというのはやはり大変なことです。
移民初期の方たちの努力は本当に偉大です。
その方たちの勤勉さ、誠実さ、手先の器用さが尊敬され、今の親日に繋がっているのですから。
取材でどこへ行っても日本人と言えば歓迎してくれますし、温かいおもてなしを受けました。
アルゼンチンのみなさんが日本にとてもいいイメージを持ってくださっているのも、移民の方たちのおかげです。
でもその事実は日本ではほとんど知られていないのが残念ですね。
ですから今回の番組で少しでも多くの方たちにそのことを知って頂きたいです」。
日本人の勤勉さを評価してくれたのは、市井の人々だけではありませんでした。
明治以降、日本が戦争中に窮地に立ったときにも、アルゼンチンは救いの手を差し伸べてくれたのです。
「日露戦争のときに軍艦を探していた日本に立派な最新の軍艦を売ってくれたり、第二次世界大戦中にも日本への攻撃参加を拒み続け、
戦後は日本にたくさんの救援物資を送ってくれたというエピソードは日本ではそんなに知られていませんよね。
でもアルゼンチンでは有名な話で、両国が強い絆で結ばれている証として今も語り継がれているんですよ」。
ことに日本と日本人を評価してくれたのが、アルゼンチンの人たちが今なお敬愛するペロン大統領とその妻でエビータの愛称で親しまれているエバ夫人でした。
ペロン大統領はよく国民に「日本人のように真面目に働きなさい」と言っていたとか。
戦後からもうずいぶん時が過ぎましたが、今なお親日の心で日本人に接してくれるのですからとても嬉しいですね。
日立、世界不思議発見!
http://www.tbs.co.jp/f-hakken/old/bknm/20120310/p_1.html
駐日アルゼンチン大使、ホルヘ・カワバタ
「赴任の日、羽田からの車の渋滞の中で、誰も叫ばず、誰も警笛を鳴らさないことが強烈な印象でした。みんな静かに待っている。一人ひとりの中に秩序があるのだ、と」
「火山、地震、台風、津波、さんざん自然にいじめられているのに、日本人は自然を愛する」
「日本はいろいろ問題はあるにせよ、奇蹟的な発展をした。強い大きな木だ。大木が倒れないためには根がしっかり張っていなくては。それが歴史を大切にし伝統を愛するということではありませんか」
「もっとアルゼンチンについて理解と知識を持って欲しいですね。日本が困った時、真っ先に走って行ったのは私たちです。日露戦争の時は2隻の軍艦を、終戦直後はミルクと小麦粉を」
「親日家ペロン将軍亡き後も、親日は全アルゼンチンの感情です。日本人への評価はとても高い。日本人を移民としてたくさん連れてきてほしいとみんなが言っています」
朝日新聞編集委員室編「日本と私・駐日外人50人が語るニッポン(1977年)」