これは、幕末の日本にアメリカから黒船でやって来て、鎖国を終わらせて開国するように迫ったペリーが当時に残したコメントです。
このコメントの内容を裏切らない当時からの日本人のさまざまな方面での優秀さの記録が実は残っています。
それらは戦前の教科書には載っていましたが、敗戦後に日本を占領したGHQによって、6年以上の占領期間中に真っ黒に塗りつぶされてしまいました。
なぜでしょうか?
当時GHQは、日本が今後2度とアメリカに立ち向かってこないようにするために必死でした。
アメリカ人にとって、信じられないほど恐怖を与えた神風特攻隊など、国、天皇への忠誠心を徹底的になくし、戦争責任は日本にあると思わせるWGIPという作戦でした。
日本はアメリカに対して戦争を仕掛けた上、アジア諸国を植民地にした悪者であるという印象操作、洗脳工作です。
根が従順な多くの日本人は、この洗脳工作によって、重度であれば反日左翼、軽度でも自虐史観にされてしまいました。
パールハーバーへの攻撃で日本が戦争を始めたのは事実ですが、裏では日本がそうせざるを得ないようにアメリカが仕向けたのは、戦後のマッカーサーの証言など、多くの記録からも分かります。
日本の各都市への爆撃や原爆で、何十万人もの日本人女性、子ども、お年寄りを虐殺したにもかかわらずに正義のヒーローを装うための工作です。
残虐されて追い払われたインディアンがどういうわけか常に悪役で、侵略、残虐を繰り返して国を奪った白人が常にヒーローである西部劇と同じです。
そこで日本人にとって誇りとなる過去の優秀な人たちのお話しを闇に葬って(教科書から削除して)しまったのです。
ラザフォード・オールコック 医師、外交官、初代駐日英国総領事(1809~1897)
「物質的文明に関しては、日本人が全ての東洋の国民の最前列に位することは否定しえない。機械設備が劣っており、機械産業や技術に関する応用科学の知識が貧弱であることを除くと、ヨーロッパの国々とも肩を並べることができるといってもよかろう」
「もし日本の支配者の政策がより自由な通称貿易を許し、日本人をしてバーミンガムやシェフィールド、マンチェスターなどと競争させるようになれば、日本人もそれにひけをとらず、シェフィールドに迫る刀剣や刃物類を作り出し、世界の市場でマクリフィールドやリヨンと太刀打ちできる絹製品や縮緬品を産出するだろう」
「大君の都 - 幕末日本滞在記」岩波文庫
「世界から絶賛される日本人」
黄文雄、徳間文庫
J・F・ケネディが尊敬した政治家・上杉鷹山
1961年、43歳で第35代米国大統領になったジョン・F・ケネディの就任の時、日本の新聞記者が「日本で最も尊敬する政治家はだれですか」と質問しました。
これに対し、ケネディは「上杉鷹山(うえすぎようざん)です」と答えました。
前大統領アイゼンハワー時代から始まった不況を打開するために、150年前の江戸時代、すでに倒産状態にあった極貧の米沢藩を立て直した鷹山を学んでいたのです。
2013年11月、駐日米国大使に就任した長女キャロライン・ケネディは、「父ジョン・F・ケネディ元大統領が、江戸時代の米沢藩の名君とされる上杉鷹山を尊敬し、就任演説に代表される考え方に影響を与えた」と述べました。
日本一貧乏な米沢藩を立て直した上杉鷹山
2014年5月、山形県の白鷹山(994メートル)の山頂に2基の石碑が建立されました。1基は鷹山が藩主としての心得を示した「伝国の辞」です。
もう1基には英語で「国家があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが国家に何ができるかを問おうではないか。大統領ジョンF・ケネディ 上杉鷹山の称賛者」と刻まれています。
この言葉は、故ケネディが大統領就任時に述べた演説の一節で、キャロライン・ケネディ大使は「この碑は今後何世代にもわたり日本と米国の人々に影響を与え続けることでしょう」と述べています。
上杉鷹山の米沢藩は、江戸時代中期から後期にかけて、貧しさや凶作・飢饉のために、13万人強あった人口が10万人弱にまで減少していきました。
絶望した領民が次々に藩を逃げ出す状況のなかで、日本一の貧乏藩(現代なら倒産したも同然の企業)を、養子の若い藩主・上杉鷹山(治憲=はるのり)が想像を絶する苦労をして、日本一豊かな藩に導いていきます。
鷹山は、「ただこの上の願いは、一度国家を再興し、人民を安んずることこそ、この身生涯の願い、これに過ぐる事あるべからず」と述べ、自身は質素な生活に徹して献身的に努力しました。
常に自己研鑚を重ね、言動は全て真心から出てくるような人物であるため、領民の信頼を得ていきました。
鷹山の生き方には、将来に暗雲が立ち込めた現在の日本に役立つ教訓が数多くあります。鷹山の藩政改革も前半は失敗の連続でした。
途中であきらめていたとしたら本当の失敗です。成功した場合も、計画の何倍もの時間がかかっており、失敗から学べる事例は枚挙にいとまがありません。
改革は莫大な借金を背負っての出発で、良くなりかけると大飢饉が襲ってきて、それまでの努力が水泡に帰しました。
しかし、鷹山はうまくいかなかった原因を探り、どんな困難にも決してあきらめず障壁を少しずつ打ち砕いていきます。
長い間に蓄積した負の要因は短期間で改善できるものではありません。現場主義で得られた情報をもとに計画は短期と長期に分け、成果の出やすいものに的を絞って実行し、時間をかけて着実に成果に結びつけていきました。
「発明王」といわれたトーマス・エジソンは、世間の人たちから「人間離れした天才」と呼ばれたとき、「私は人間離れなどしていない。あきらめないことの天才なのだ」「人生における失敗者の多くは、あきらめたときにどれだけ成功に近づいていたかに気づかなかった人たちだ」と言っています。
鷹山の改革の足跡をみると、改革の天才であると思えてきます。天才といえる人物はどのように育てられ、成長していくのかがよくわかります。
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3113650030052018000000
新渡戸 稲造 (にとべ いなぞう)
「日本人の精神とは何か、日本人とはどんな民族か?」を西欧人たちに紹介するため英文で書かれた新渡戸稲 造の著書「武士道、日本人の精神」(Bushido, the Spirit of Japan)がニューヨークで出版されたのは明治三十二年(1899)十一月でした。
小著でしたがこの書に盛られた日本人の魂「武士道」とは、日本人が儒 教、仏教によって二千年の長い歴史の中で培われてきた七つの徳目、すなわち、義、勇、仁、礼、誠、名誉、および忠義を、体系的に理解しやすいように述べ た、日本人に関する唯一の思想書となりました。
古今の学に通じ、世界文学教養の高い新渡戸稲造のこの著書は各国語に訳され、たちまち世界のベストセラーになりました。
この書を読んだ世界のリーダーたちの中にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領がいたのです。彼はこの本を読み、たいへん感動して友人たちにこれを配りまた自分の子供たちにも読み聞かせたといいます。
さらに、あの日露戦争の講和条約締結の際には『あの「武士道」の国のためなら一肌脱ごう』といって、日本とロシアとの戦争終結に向けての調停役を買ってくれました。
出典元に続く...: 中島茂の点描 マッカーサー
田中久重(1799-1881)
東洋のエジソン、からくり儀右衛門と呼ばれる。
田中久重が当時作った万年時計は、時計のゼンマイを一度巻くと一日で止まってしまうのが普通であった当時、一年以上も動き続けた精密巧妙な時計でした。
その時計を2004年の愛知万博で、100人を超える技術者が、1億円をかけてそのレプリカを作ろうとチャレンジしましたが、結局その仕組みを解明できずに失敗しています。
現代の技術者が100人もかかって、しかも1億円の資金をもっても200年前の1人の人間が作ったものを真似できなかったのです。
田中久重が作ったものは、からくり儀右衛門の名が示す茶汲み人形や弓引き童子の他に、当時の黒船ペリーが持って来た蒸気機関車モデルの日本製を作れという使命が下り、それを約一年後に完成させました。
他にも、船舶の交信に使われる電信機、写真機、アームストラング砲、火薬技術を使った筑後川の河川改修、日本初の製氷機、自転車、人力車、精米機、ガラス製品などの開発も行いました。
後の東芝となる田中製作所で当時働いていた人たちには、沖電気創業者の沖牙太郎、モリタ宮田工業創業者の宮田政治郎、工作機械メーカーの池貝の池貝庄太郎、アンリツ創業者の1人、石黒慶三郎などがいました。
数学の関孝和(1635?-1708)
点竄術(てんざんじゅつ)つまり筆算による代数の計算法を発明、世界で最も早い時期に終結式を用いた変数消去の一般論を見出した。
暦の作成にあたって円周率の近似値が必要になったため、1681年頃に正131072角形を使って小数第11位まで算出した。関が最終的に採用した近似値は「3.14159265359微弱」これは世界的に見ても、数値的加速法の最も早い適用例の一つ。(西洋でエイトケンのΔ2乗加速法が再発見されたのは1876年、H.von.Nägelsbachによって)
ヤコブ・ベルヌーイとは独立かつやや早くにベルヌーイ数を発見していたことも知られ、西洋の微分積分学の発展とは独立に、方程式の求根の際に導関数に相当するものを計算したり、求長・求積に関する業績を挙げている。
屋井先蔵(1863-1927)
乾電池の発明者。ドイツのガスナー、デンマークのヘンセンスがそれに続く。
1885年、それまでのバネで動く時計に対して、電気動力で動く連続電気時計を発明しました。
但しそれは液体電池で動くものでした。液体電池の場合は電解液の液漏れと気温の低下による凍結という欠点がありました。
そこで屋井は屋井乾電池合資会社を設立して、悪戦苦闘の末に1987年に乾電池の開発に成功しました。
1892年、アメリカ、シカゴの万国博覧会で東京帝大から出品された地震計に使われた屋井の乾電池に注目が集まりました。
気温が低いと電解液の凍結で使えなくなる液体電池と違い、屋井の開発した乾電池は日清戦争で必要とされました。
その後は岡田電気商会や松下幸之助などの競合も現れましたが、屋井がもし長寿であれば、松下幸之助に並ぶ存在になっていただろうと言われているそうです。
高峰譲吉、三共製薬創業者(1854-1922)
タカジアスターゼの開発者(アメリカにて)
ニューヨーク、ヘラルド紙に「日本は偉大なる国民を失うとともに、アメリカは得がたい友人を失い、世界は最高の科学者を失った」と書かれた人。
当時アメリカではフォード、コダック、エジソンと並ぶ発明家。アメリカで巨万の富を得る。
1877年には陸軍省からの工部大学校長を通した依頼で、日本初の軽気球を開発、築地の海軍省練兵場で友人飛行を行った。
その後に農商務省工務局に勤めて工部省幹部の宇都宮三郎から、和紙、藍の製造技術や清酒醸造の研究を行う。
燐鉱石を原料にした化学肥料製造を思い付き、渋沢栄一、三井物産初代社長の増田孝、浅野財閥の浅野総一郎、大倉財閥の大倉喜八郎を巻き込んで東京人造肥料(後の大日本人造肥料)を設立、成功させる。
工場の近くに私設の研究所を建てて藍の肥料や防臭剤、防火塗料の開発を行い、高峰式種麹改良法の特許を取得。
再び渡米してニューオリンズの実業家の娘と結婚する。
アメリカの大手ウィスキーメーカー、ウィスキートラスト社にスカウトされ、モルトをふすまに代替したウィスキーの醸造法の開発に成功するも、家事による全焼で頓挫。
澱粉及びタンパク質も分解する酵素、ジアスターゼの開発に成功、ギリシャ語で「最も優れた」を意味する「タカ」を付けて「タカジアスターゼ」と命名した消化剤が世界中で注目を浴びて販売開始される。
日本では塩原又策、福井源次郎と共に三共商店を設立、胃腸薬タカジアスターゼは家庭常備薬としてヒット。
その後、心臓停止時の救急救命薬や喘息の気管支拡張薬などとして広く使われるアドレナリンの世界初の結晶化に成功、ホルモン化学の新世紀の扉を開いた先駆者。