ニコライ・カーサトキン(1836〜1912)宣教師、東京駿河台にニコライ堂を建立
「国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育がゆきわたっている。この国では孔子が学問知識のアルファかオメガであるということになっている。だが、その孔子は、学問のある日本人は一字一句まで暗記しているものなのであり、最も身分の低い庶民でさえ、かなりよく知っているのである。
(中略)どんな辺鄙な寒村へ行っても、頼朝、義経、楠正成等々の歴史上の人物を知らなかったり、江戸や都その他のおもだった土地が自分の村の北の方角にあるのか西の方角にあるのか知らないような、それほどの無知な者に出会うことはない。(中略)読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にもひけをとらない。日本人は文字を習うに真に熱心である」
「実に多くの貸本屋があって、信じ難い程の安い料金で本は借りて読めるのである。しかも、こちらからその貸本屋に足を運ぶ必要がない。なぜなら本は毎日、どんな横丁、どんな狭い小路の奥までも配達されるからである。本はどれも手擦れしてボロボロになっており、ページによっては何が書いてあるのか読み取れないほどなのだ。日本の民衆がいかに本を読むかの証拠である」
『ニコライの見た幕末日本』 ニコライ著、講談社学術文庫
読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にもひけを取らない。(ロシアについては言うも愚かだ!) 日本の本は、最も幼稚な本でさえ、半分は漢字で書かれているのに、それでなおかつそうなのである。漢字の読み方を一通り覚えるだけでも3、4年はたちまち経ってしまうのに! それなのに日本人は文字を習うにまことに熱心である。この国を愚鈍と言うことができるだろうか?
民衆はおしなべて、この国の貧しさの責任は政府にあると、口を揃えて避難している。そうしたことを聞くのはなかなか興味深いことであった。それでいて、この国には乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも毎夜、歓楽街は楽と踊りで賑わい溢れているのである。これが支配者の前に声なく平伏す東方的隷従だろうか?
「あの国」どうして日本が好きなのか?
「ニッポン再発見」クラブ
オケアンスキー・ベストニク
明治天皇崩御時(1912年)、日露戦争で敵国であったロシアからの7月31日の追悼文にて...
「小国で世界ではあまり知られていなかった日本は、天皇の幸運な治世下で発展し、その名を世界にとどろかせ、世界的1等国の間にその地位を占めるにいたった」
「日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか」 黄文雄、徳間書店
「かって日本国内を旅行した時に、偶然に松山の温泉地にある墓地に立ち寄ったことがあります。驚いたことに、そこには日露戦争などで亡くなった100人ほどのロシア兵たちのお墓がありました。松山には最初の捕虜収容所が設けられたそうで、次々と送られてきた外国人捕虜たちは公会堂や寺院に収容されたのですが、待遇は非常に良く、外出、温泉入浴、海水浴なども許され、一時は4千人を超えるロシア人がいたらしいのです。そして病気などのために寂しく異郷で亡くなったロシア人たちはここに埋葬されて、毎年慰霊祭もあると聞きました。近づいてよく見てみると、何と、それぞれのお墓にみかんや杯などがお供えしてあるのです。近くに住む日本人の女性たちが今でも生花やお水をあげて、ずっとお墓の世話をしているのです。私はそのことを知り、日本人の心の優しさに涙が出るくらい感動してしまいました」
元ロシア大使館一等書記官文化担当官、セルゲイ・ハルラモフさん
イスラエルの建国の志士、ヨセフ・トランペルドールが心に刻んだ、日本精神
イスラエル建国の志士、ユダヤ人のヨセフ・トランペルドールさんは日露戦争の時にロシアに住んでいて、日本軍と戦ったロシア兵士の1人でした。
ユダヤ人国家であるイスラエル。
そのイスラエルの建国に多大な影響を与えたのは、実は教育勅語など日本精神でした。
イスラエルの建国の志士として尊敬されているユダヤ人で、ヨセフ・トランペルドール(Joseph Trumpeldor) という人がいます。
ヨセフ・トランペルドールはロシアで生まれ育ちましたが、ロシアはユダヤ人に対して差別して迫害していました。
高校に進学できなかったり、自由にロシア国内を移動することも許されていませんでした。
ユダヤ人の地位向上を図るには、ロシア軍に入隊して貢献するしかない、と考えたヨセフ・トランペルドールは、シベリア連隊に配属されました。
そして、旅順にて日本と戦争をしました。
戦闘の前、危険な任務に就くために、ロシア人の小隊長がいいました。
「貴様たちの中で、ジット(ユダヤ人の蔑称)のような臆病者はいないだような」
ヨセフ・トランペルドールは真っ先に志願していいました。
「小隊長、しかし私はユダヤ人であります。」
すると小隊長が言いました。
「そうか、貴様は、ジット(ユダヤ人の蔑称)らしくないジットだな」と。
その後もヨセフ・トランペルドールはユダヤ人の地位向上を図るためにも、積極的に危険な任務に着きました。
負傷したヨセフ・トランペルドールは右腕を切断しましたが、傷病兵として安全な後方に就くことなく、危険な前線に志願して戦いました。
そのため、ヨセフ・トランペルドールは旅順守備軍のステッセル司令官から「ロシア将兵のお手本である」と称賛されました。
日露戦争時、ロシア兵200万のうちユダヤ人は3万人いましたが、ユダヤ人将校は一人もいませんでした。
これは、ロシア国において、ユダヤ人に対する差別がどれほど強かったかを物語っています。
明治38年(1905年)1月1日、旅順守備隊は日本軍に降伏。
1万人のロシア兵捕虜たちは日本に向かいました。
その中に500名のユダヤ人がおり、ヨセフ・トランペルドールもその一人でした。
大阪の浜寺に捕虜収容所が設けられ、滞在することとなりました。
捕虜たちはそれぞれ宗教別に棟が分けられ、ユダヤ人たちは同じ棟に割り当てられました。
まだ、当時の日本の一般家庭で電灯が通っていない時代、どの収容所の棟にも電気が通っていました。
新鮮や野菜や肉がたくさん配給され、さらに、将校には月3円、兵士には月50銭が支給されました。
ヨセフ・トランペルドールは、日本人所長に相談して、収容所の中で、学校を開きました。
ロシア人に対して、ロシア語の読み書きや算数、地理、歴史などを教えました。ほとんどのロシア兵は、ロシア語の読み書きができませんでした。
また、床屋、鍛冶屋、靴職人などを捕虜から探して、職業訓練を行いました。
ヨセフ・トランペルドールは、パレスチナにイスラエル(ユダヤ人の国)を建国しようという志を持っていました。
米国ニューヨークに、イスラエルを建国することを目的とした協会である、シオニスト協会がありました。
ヨセフ・トランペルドールは、日本の収容所内にシオニスト協会の日本の浜寺支部を設立し、125名のユダヤ人捕虜を会員にして、組織化しました。
ヨセフ・トランペルドールは収容所内で、ロシア語の機関紙まで発行しました。
日本の収容所に滞在中、ユダヤ教の大祭である、過越の祭(ペサハ)(pesach) が行われました。
ユダヤ人が食べる、酵母のないパンであるマッツア(matztzāh)を入手するために、横浜のユダヤ教会(シナゴーク)(synagogue)に行きたいと所長に懇願しましたが、さすがに捕虜の身分でそれは許可されませんでした。
しかし、所長は特別に、横浜のユダヤ人社会と連絡をとり、マッツア(matztzāh)を取り寄せてくれました。
ヨセフ・トランペルドールは、イスラエルの建国を志していたので、日本が、開国してからわずか38年で、なぜ世界の一等国であるロシアに勝利することができたのかを研究しました。
そのために、日本の所長から日本のことを色々と教えてもらいました。
日本人は勤勉であるとか、私利私欲を捨てて、公(おおやけ)のために協力し合うとか、愛国心が強いとか、祖先を敬うとか、家族の団結が強いなど、教わりました。
そして、日本人の根底にあるのは、万世一系の天皇を中心とした国体であり、また、”教育勅語”というものであるということも教わりました。
明治38年(1905年)9月、米国東海岸のポーツマスにて講和条約が締結されたので、日本に滞在していた捕虜たちは順次、ロシアに帰国しました。
ヨセフ・トランペルドールは12月に帰国しましたが、間も無く、ユダヤ人で初めての将校として、陸軍少尉に任命されました。
ヨセフ・トランペルドールは、祖国の建設するためには教育を受ける必要性を感じ、サンクトペテルブルグ大学に進学しました。
当時のロシアでは、ユダヤ人が、ロシアの首都であるサンクトペテルブルグに出入りすることを許されていませんでしたが、ヨセフ・トランペルドールはロシア兵将校でしたので、特別に許可されました。
ヨセフ・トランペルドールはロシア在住のユダヤ人を募り、パレスチナに移住しました。
当時のパレスチナはオスマントルコ帝国の領土でした。1914年、オスマン・トルコ帝国とドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国は、同盟して、ロシア、イギリス、フランスなどの連合国と戦争をしました。(第一次世界大戦)
パレスチナ在住のユダヤ人たちは、オスマン・トルコの国籍をとるように強要されましたが、ヨセフ・トランペルドールたちは拒否して、イギリス領のエジプトに向かいました。
ヨセフ・トランペルドールはイギリスにユダヤ人部隊を創設するように働きかけました。
この提案が受け入れられ、ユダヤ人による部隊が結成されました。(シオン騾馬(ラバ)部隊)(シオンとはイスラエルの別名)
ヨセフ・トランペルドールにとっては将来、イスラエルの独立をするにあたり、ユダヤ人の軍隊を持つ必要があったので、そのための布石と考えていました。
しかし、このユダヤ人部隊(シオン騾馬(ラバ)部隊)(Zion Mule Corps)は、イギリス軍として戦いました。
そして、1915年12月から、トルコのチャナッカレ海峡の岬にある、ガリポリ攻略戦に従軍しました。
世界大戦が終わると、オスマン・トルコ帝国は中東の広大な領土を失い、パレスチナはイギリスの委託統治下となりました。
1919年、ヨセフ・トランペルドールは、ロシアからイスラエルに再び戻りました。
パレスチナでは、アラブ人により、ユダヤ人は絶えず襲撃されていました。
1920年10月29日、ヨセフ・トランペルドールはガリレア地方の北部のタルハイ農場にて、アラブ武装集団に襲撃されて、命を落としました。
ヨセフ・トランペルドールは、息を引きとる最後に次のようにいいました。
「アイン・ダバル トフ・ラムット・ビアード・アルゼヌ」
(ヘブライ語)
「国のために死ぬほど、名誉なことはない」(日本語訳)
この言葉は、ヨセフ・トランペルドールが日本の浜寺の収容所に滞在していた時に、日本兵士から教わった言葉でした。
(参考図書「ユダヤ製国家日本」ラビ・M・トケイヤー著)
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