日本に助けを求めたベトナム東遊運動
1905年、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破り日露戦争に勝利すると、ベトナム民族主義運動の指導者ファン・ボイ・チャウ(Phan Boi Chau)は日本へ渡り、フランスに対抗するための武器援助を求めた。
しかし後の第29代内閣総理大臣・犬養 毅(いぬかい つよし)らは、ベトナム独立にはまず人材育成が重要であると忠告し、ベトナムの青年ら200人以上を日本へ留学させた。
ベトナムではこれらの運動は「東遊運動(トンズー運動)」と呼ばれ、日本の協力で独立へ向けた準備が進められたが、危機感を抱いたフランスは日本政府へ圧力をかけ、ベトナム留学生らを日本からすべて国外退去させて、東遊運動を揉みつぶしてしまった。
ドイツ軍のフランス侵攻で事態は急展開
ベトナム独立を巡る事態が急展開するのは1940年以降のこと。1940年6月にドイツ軍のフランス侵攻でパリが陥落すると、中国への補給路を断つため日本はインドシナ北部のフランス領に進駐。1945年にはフランス植民地政府を破り、ベトナム帝国を独立させた。
1945年8月14日に日本がポツダム宣言を受諾すると、ベトナムは事実上の無政府状態に。この間隙をついて、ホー・チ・ミンはベトナム八月革命を起こし、1945年9月2日にベトナム民主共和国の独立を宣言した。