Vincent van Gogh (1853 - 1890)
こんにちでは、3桁の億の日本円の価値がつくゴッホの作品。でも生前に売れた絵はごく限られていたそうで、その価値が理解されるようになったのは、ゴッホが亡くなった後です。そのゴッホを支えた、画商の弟テオに宛てた手紙がいくつも残っていますが、日本の芸術を絶賛しています。
「全ての私の作品は、多かれ少なかれ、浮世絵の影響を受けている」
「日本芸術を研究すると、明らかに賢者であり、哲学者であり、知者である人物に出会う。その人は何をして時を過ごしているのだろうか。地球と月の距離を研究しているのか。違う。ビルマスクの政策を研究しているのか。いや、違う。その人はただ一本の草の芽を研究しているのだ。
(中略)
まるで自身が花であるように、自然の中に生きる。こんなに簡素なこれらの日本人が、我々に教えてくれるものこそ、まずは真の宗教ではないだろうか」
「僕は日本の絵を愛し、その影響を受け、また全ての印象派の画家はともに影響を受けているが、それならどうしても日本へ、つまり日本に当たる南仏へ行かないわけにはゆかぬ」
「日本人が素早く、稲妻のようにデッサンするのは、その神経が我々よりも繊細で感情が純真であるからだ」
「ゴッホの手紙」 上・中・下 岩波文庫
日本では、炎の文様を付けた、火縄土器という芸術的な縄文土器が見つかっていますが、それは世界最古で1万6千年以上も前のものです。
ゴッホは元々暗い色調の絵を書いていましたが、それを変えたのが、パリに出て印象派の画家たちと出会い、パリの万国博覧会で日本の芸術作品に出会ったことだと言われています。特に安藤広重の「亀戸梅屋舗」、「大はし阿たけの夕立」などを模写して浮世絵を学んで色彩が明るいタッチに変わったそうです。
モネには着物を着せた奥さんと浮世絵の団扇が描かれた絵があり、マネの「ゾラの肖像」には浮世絵の絵そのものが描かれています。
ヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・ヒュースケン 江戸時代後期に伊豆国下田の玉泉寺に設置された駐日アメリカ総領事館の通弁官
「今私がいとしさを覚え始めている国よ、この進歩は本当に進歩なのか?この文明は本当にあなたのための文明なのか?この国の人々の素朴な風習とともに、その飾り付けのなさを私は賛美する。
この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子どもたちの愉しい笑い声を聞き、どこにも悲惨なものを見出すことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならないのである」
「日本賛辞の至言33選」 波田野毅、ごま出版
1856年、下田を台風が襲い1/3が破壊され、台風が去ったあとの日本人の態度を見て...:
「日本人の態度には驚いた。泣き声ひとつ聞こえなかった。絶望なんてとんでもない!彼らの顔には悲しみの影さえもなかった。それどころか、台風なんてまったく関心がないという様子で、嵐のもたらした損害を修復するのに忙しく働いていた」
岩波文庫「ヒュースケン日本日記」青木枝朗(訳)
フランソワ・カロン 台湾オランダ領行政長官(1600~1673)
「日本は決して武力で押さえつけることはできない」
「この国民は信用すべしと認められる。彼らは第一の目的である名誉に邁進する。また恥を知るをもってそぞろに他をそこなうことは無い。彼らは名誉を維持するためにはよろこんで命を捨てる」
「彼らは第一の目的である名誉に邁進する。また、恥を知るをもってそぞろに他を害うことはない。彼らは名誉を維持する為には悦んで命を捨てる」
「日本大王国志」 幸田成友訳、平凡社東洋文庫
「子供たちへの深い愛情を、家庭生活の全ての場面で確認することができる。見ようによっては、日本人は自分の子供たちに夢中だとも言える。親が子供に何かを禁じるのは、ほとんど見たことがないし、叱ったり罰したりすることは、さらに稀である」
ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ
『長崎海軍伝習所の日々』〈水田信利訳、平凡社東洋文庫〉