お雇い外国人  フルベッキ博士

明治維新には、多くのお雇い外国人が貢献しています。お雇い外国人とは、当時の幕府、各藩、明治新政府が雇い、外国の言葉や、進んだ西洋先進国の医学、政治、軍事、法律、経済、教育、インフラ工事などを日本に来て多くの日本の志士たちに教えていた外国人たちのことです。

 

駐日イギリス公館通訳、同公使、駐清公使を歴任した、アーネスト・サトウや、中日英国公館医師、同副公使を歴任して、日本の近代医学・医療の基礎を築き、その発展に貢献したイギリス人医師で東京大学医学部前身・鹿児島大学医学部前身の創始者でもあるウィリアム・ウィルスなどがいました。

 

例えば当時の日本の医学には漢方薬を頼った東洋医学しかなく、外科の知識もなかったために外科手術などもできず、ウィリアム・ウィルスは明治新政府軍が幕府軍と戦った時の従軍外科医を勤めたほどでした。

 

そういったお雇い外国人は、1960年頃から1900年頃までの間でのべにして5千人ほどもいましたが、その中でも特に有名な一人が次の画像でも知られたフルベッキ博士です。

 

1830年にオランダ、ユトレヒト州のザイストで資産家の父カールと教育者の母アンナとの間に8人兄弟の6番目の子供として生まれた。

 

モラヴィア派の学校に通い、同派の学校でオランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を習得している。

 

少年時代、中国宣教師のカール・ギュツラフにより東洋宣教の話を聞き、海外伝道に興味を持った。

 

明治維新で活躍した多くの志士が一同に... 出典: 文芸社、山口貴生著「日本の夜明け・フルベッキ博士と幕末維新の志士たち

 

1852年9月2日、ニューヨーク州オーバン市にいた義理の兄弟の招きでアメリカに渡り、ウィスコンシン州の鋳物工場で働くようになる。

 

1年後にニューヨーク、ブルックリンに移動、更にアーカンソー州でエンジニアとして働くことを選び、橋や機械類をデザインした。

 

同じ時期に南部の奴隷たちの状態を見て心を痛め、またハリエット・ビーチャー・ストウの兄弟であったヘンリー・ウォード・ビーチャーの教えにも心を動かされる。

 

その後1854年の夏にコレラにかかり重症となるが、完治した暁には宣教者になることを誓った。奇跡的に回復したフルベッキは渡米最初に来たオーバンに戻り、1855年にニューヨーク市にある長老派のオーバン神学校(英語版)に入学した。

 

神学生の時に、サミュエル・ロビンス・ブラウン(オーバン神学校からマカオのモリソン記念学校で教え、シンガポールでヘボンと合流し共にニューヨークに帰国)の牧会するサンド・ビーチ教会(英語版)で奉仕をした。これをきっかけに、ブラウンと共に日本に宣教することになる。

 

1859年、正式に米国オランダ改革派教会の宣教師に任命された。4月18日にマリア・マニオンと結婚し、5月7日にサプライズ号で、ブラウン、シモンズと共に日本へ向けてニューヨーク港より出帆した。

 

出典: 文芸社、山口貴生著「日本の夜明け・フルベッキ博士と幕末維新の志士たち。 各志士の詳細は文末に

 

長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていた。

 

1862年には、自宅でバイブルクラスを開いた。また1861年から1862年にかけては佐賀藩の大隈重信と副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けている。

 

1863年、生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、翌年長崎に戻った。大隈重信と副島種臣はこの頃から、フルベッキから英語の個人授業を受けている。

 

大隈はフルベッキの授業によってキリスト教に興味を抱いたと述懐している。

 

1864年、長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所→済美館→広運館などと呼ばれた)の英語講師への招聘があり、フルベッキは教師として幕府に雇用された。また、この幕府の英学所「済美館」とともに、佐賀藩が設置した致遠館でも教鞭を取った。

 

1867年から1868年にかけては薩摩藩や土佐藩によるフルベッキの引き抜きが行われようとしたが、大隈らが1000両の給金を支払うよう藩にかけあったことで決着している。

 

1868年には岩倉具視の子、岩倉具定と岩倉具経が門弟となり、致遠館で学んだ。

 

致遠館での校長、教頭の関係や学生時代の子弟関係から、大隈重信はフルベッキを師と仰ぎ、大隈が創設した早稲田大学でもフルベッキを建学の祖として讃えている。

 

1869年、明治政府より大学設立のために江戸に出仕するように通達を受ける。到着したばかりの後任宣教師ヘンリー・スタウトに伝道を引き継ぎ、江戸に向かった。

 

江戸では、法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事だった。

 

1868年6月に大隈重信(小松帯刀より外交に関する官職を引き継いでた)に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。

 

それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、1871年11月に欧米視察のために使節団を派遣することになった(岩倉使節団)。

 

1869年2月より東京大学の前身に当たる開成学校(旧幕府開成所)の教頭を務めながら(高橋是清や小村寿太郎が入学)、学校の整備を行い、1869年12月には大学南校と改称した(1873年には再び開成学校)。

 

大学南校在職中の1870年10月から1873年まで教頭を務め、規則や教育内容の充実に努めた。

 

大学南校在職中の1871年(明治4年)10月5日、明治天皇より学術の功績への感謝と更なる発展への期待を希望する旨の勅語を賜わる。

 

1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウィリアム・エリオット・グリフィスを呼び寄せて、化学の教授をさせた。

 

フルベッキ博士の墓、墓碑は東京の青山墓地にあります。死後半年の後に知友たちの募金によって建てられました。

 

葬儀は東京、芝の日本基督教会で盛大に行われ、棺は政府が派遣した近衛師団儀仗兵の一隊に守られて青山墓地に埋葬されました。

 

埋葬の費用は天皇によって負担されました。

 

(22)陸奥宗光(紀州藩)

日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家。

 

カミソリ大臣とも呼ばれて第2次伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るった。土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎、伊藤俊輔などの志士と交友を持つようになる。

 

勝海舟の神戸海軍操練所に入り、1867年には坂本龍馬の海援隊に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。

 

勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥はその才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。

 

陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と絶賛している。

 

龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する天満屋事件を起こしている。

 

伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。1884年にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートは7冊現存されている。

 

1888年、駐米公使となり、同年駐米公使兼駐メキシコ合衆国公使として、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任する。

 

その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任。

 

1894年、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。

 

以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ帝国、イタリア王国、フランスなどとも同様に条約を改正した。

 

陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(領事裁判権の撤廃)を成し遂げた。同年8月、子爵を叙爵する。

 

一方、同年5月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。

 

 

 

(21)石橋重朝(佐賀藩)

1870年、外交交渉全般の目的でアメリカに留学。1872年に帰国、佐賀藩権大属となる。1873年、工部省出仕、後大蔵省権少書記官となる。1885年、統計局初代局長。

 

 

 

(18)森有礼(薩摩藩)

義理父が岩倉具視。1865年、五代友厚らとともにイギリスに密航、留学し(薩摩藩第一次英国留学生)、ロンドンで長州五傑と会う。

 

その後、ロシアを旅行し、さらにローレンス・オリファントの誘いでアメリカにも渡り、オリファントの信奉する新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団と生活をともにした。

 

1870年秋、 少弁務使としてアメリカに赴任する。1873年夏、帰国すると福澤諭吉・西周・西村茂樹・中村正直・加藤弘之・津田真道・箕作麟祥らと共に明六社を結成する。

 

1874年5月から1875年2月に『明六雑誌』に「妻妾論」を発表。一夫一婦を主張する。

 

2月6日、福澤諭吉が証人となり、幕臣広瀬秀雄の娘広瀬常との結婚に際して3か条を交換して婚姻契約書に署名し結婚した。

 

11月、清国公使になる。1876年1月、保定府(北京の南方)で李鴻章と会談。1877年11月、英国公使になる。

 

1885年12月22日、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、死没日まで)、東京高等師範学校(東京教育大学)で教育政策に携わる。

 

 

(38)吉井友実(薩摩藩)

1864年、西郷隆盛と下関に行き、長州藩士と五卿の筑前移転を協議。1867年、板垣退助らと討幕の協議。明治新政府で微士、参与、軍務官判事。

 

司法民部兼大蔵少輔、宮内輔を歴任。1876年、元老院議官、1878年、一等侍輔。1883年、日本鉄道会社社長。1885年、宮内次官、華族に列して伯爵となる。1889年、枢密顧問官兼任、1892年、専任。

 

 

 

(17)香月経五郎(佐賀藩)

1869年、アメリカ留学。オックスフォード大学で経済学を研究。1874年帰国。佐賀藩中属。同年の佐賀の乱で征韓党に同調して戦い敗北。高知で捕縛されて処刑された。

 

 

 

(31)五代友厚(薩摩藩)

水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航(この時高杉晋作と出会う)。

 

生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと松木洪庵と共にイギリス海軍の捕虜となるが、通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において、小舟にてイギリス艦を脱出、江戸に入る。

 

1865年、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、さらに欧州各地を巡歴。

 

1866年に帰国。御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。

 

英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業奈良県天和銅山や、福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。

 

薩長藩閥政府との結びつきが強く1875年に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件にも関わり、政商といわれた。

 

大阪財界人、田中市兵衛らとともに 大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。

 

 

 

(21)鮫島誠蔵(尚信、薩摩藩)

薩摩藩の留学生として森有礼、長澤鼎、吉田清成、五代友厚ら15名でイギリスに留学しロンドン大学法文学部に約1年間学ぶ。

 

1868年10月、外国官権判事、東京府判事などを経て、翌年7月に東京府権大参事となり、1870年8月に外務大丞、同年の欧州差遣、少弁務使を経て、1871年にロンドンに着任した。

 

1872年、中弁務使に進んだのちパリに着任し、弁理公使、特命全権公使と昇進した。

 

1874年4月、帰国。翌年に外務省の次官である外務大輔となった。1878年1月、再び在仏特命全権公使を任じられフランスに駐在した。この時、外務卿の寺島宗則から条約改正交渉に入るよう訓令されている。ベルギー公使を兼務した。

 

在仏公使在任中にパリで持病の肺病に倒れ、35歳で病没した。終世友人だった森有礼はその葬儀にかけつけ、弔辞で「気高き働き人」と述べたという。

 

 

 

(26)黒田清隆(薩摩藩)

1888年から1889年にかけて、第2代内閣総理大臣を務めた。陸軍軍人としての階級は陸軍中将。

 

幕臣・江川英龍に学び、長じて砲手になった。1862年6月の生麦事件には、随行の一人として居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。

 

黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝を受けている。

 

1863年、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。

 

1866年の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷吉之助と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。

 

1871年1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。

 

1875年の江華島事件をきっかけに、同9年2月に朝鮮と交渉する全権弁理大臣となり、日朝修好条規を締結した。

 

1887年第1次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて同21年、1888年4月に第2代内閣総理大臣となった。

 

 

 

(25)中村宗見(薩摩藩)

長崎養成所でオランダ軍医ポンペと後任のボードインから西洋医学を学び、薩摩藩留学生に選ばれてイギリスに留学。

 

1987年、西郷従道、山縣有朋らのヨーロッパ視察に通訳として随行。帰国後、兵部省、工部省、外務省と移り、1886年、オランダとデンマーク弁理公使を歴任。

 

1890年、元老院議官。1892年、貴族院議員。

 

 

 

(32)寺島陶蔵(宗則、薩摩藩)

日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿。

 

1858年に横浜で貿易実務に関わったことをきっかけに、1859年から本格的に英語を学ぶ。

 

1861年には、英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として、福澤諭吉、箕作秋坪とともに抜擢された。

 

明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。1868年にはスペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり、1871年にはハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任されている。1872年、初代の在イギリス日本公使となる。

 

 

 

(19)別府晋介(薩摩藩)

1871年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。

 

1872年、征韓論に関連して西郷が満洲・朝鮮偵察を命じた際には、北村重頼・河村洋与とともに外務大丞・花房義質の随員という形で釜山に赴き、韓服を着、韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。

 

1873年、征韓論が破裂して西郷が下野すると、すぐさま少佐の職をなげうって鹿児島に帰った。1874年、鹿児島に青年教養のための私学校がつくられたときは、その創設に尽力した。

 

戊辰戦争の銃弾で負傷した西郷に命じられ、晋介は駕籠から下り、「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、拝礼している西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決した。享年31。

 

 

 

(39)西郷隆盛(薩摩藩)

薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。

 

斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、再び沖永良部島に流罪に遭う。

 

しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保利通の後押しで復帰し、1864年の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。

 

江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

 

1871年に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務した。

 

1877年に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

 

坂本龍馬を鹿児島の自宅に招いた際、自宅は雨洩りがしていた。夫人の糸子が「お客様が来られると面目が立ちません。雨漏りしないように屋根を修理してほしい」と言ったところ、西郷は「今は国家(日本中の家)が雨漏りしている。我が家だけではない」と叱ったため、隣室で休んでいた龍馬は感心したという。

 

坂本龍馬曰く:

 「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」

 

福澤諭吉曰く:

 「西郷は天下の人物なり。日本狭しといえども、国情厳なりと言えども、あに一人を容れるに余地なからんや」

 

勝海舟曰く:

「その胆量の大きいことは、いわゆる天空活濶で見識ぶるなどということは、もとより少しもなかった。

 

知識の点においては、外国の事情などは、かえっておれが話して聞かせたぐらいだが、その気胆の大きいことは、このとおり実に絶倫で、議論もなにもあったものではなかったよ」

 

「西郷は、どうも人にわからないところがあったよ。大きい人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたって、すぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうではないのう」

 

「天下の識見、議論では西郷に負けぬが、天下の大事を決する人物は彼西郷である」

 

「その度胸の大きさには俺もほとほと感心したよ。あんな人物に出会うと、たいていな者が知らず知らずその人に使われてしまうものだ」

 

板垣退助曰く:

「維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と三人をならべていうが、なかなかどうしてそんなものではない。西郷と木戸、大久保の間には、雫が幾つあるか分らぬ。西郷、その次に○○○○といくら零があるか知れないので、木戸や大久保とは、まるで算盤のケタが違う」

 

前原一誠 曰く:

「西郷先生は、どれぐらい大きいか、底が知れぬ」

 

山縣有朋曰く:

「翁は気宇活濶、千万人の大軍を統率して能く平然たるべき天成の大英雄」

 

「西郷という人はマアどうしても非凡の人間である。その果断明決、能く事の利害を察し、そうして能く之を実行する力を持っているというものは到底尋常の人間で出来ないことである」

 

村田新八曰く:

 「今日天下の人傑を通観したところ、西郷先生の右に出る者はおいもはん」

 

 

 

(23)西郷従道(薩摩藩)

西郷隆盛の実の弟。

1869年、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。1870年7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。

 

1871年7月、陸軍少将となる。1873年には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する。薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。

 

1874年に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮する。

 

兄隆盛が1877年に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿の山縣有朋が政府軍を率いて九州へ出征したため、陸軍卿代理に就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。

 

内閣制度発足で初代海軍大臣に任命され、山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせて、日本海軍を日清・日露の戦勝に導いた。

 

西郷は従兄の大山巌と同じく、細かい事務は部下に任せてほとんど口を出さず、失敗の責任は自らが取るという考えを持っており度量が大きかった。

 

軍政能力に長けた山本が、その手腕をいかんなく発揮できたのは、西郷自身の懐の大きい性格のお陰だとも言われている。

 

井上馨から海軍拡張案のことで尋ねられた際、「実はわしもわからん。部下の山本ちゅうのがわかっとるから、そいつを呼んで説明させよう」と言い、井上は山本の説明を受け納得したというエピソードがある。

 

西郷隆盛や大山巌と同じく鷹揚で懐の深い人物であったとされる

 

1894年に海軍大将となり、1895年8月5日には侯爵に陞爵し、貴族院侯爵議員に就任した。

 

1898年に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛の逆賊行為を理由に断り続けた(大山巌も同様)。

 

 

 

(36)大久保利通(薩摩藩)

明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、三条実美、勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本龍馬)」の1人でもある。

 

初代内務卿で、内閣制度発足前の明治日本政府(太政官)の実質的・事実上の首相。

 

西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いた。

 

西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を重野安繹に頼んだりもしていた。

 

暗殺された時には、生前の西郷から送られた手紙を持っていたとされる。

 

 

 

(31)小松帯刀(清廉、薩摩藩)

薩摩藩を雄藩に押し上げた藩政改革と幕末政局(薩長同盟、大政奉還など)において重要な役割を果たした。

 

明治維新直後に病気で死去したため、明治政府で活躍した同じ薩摩出身の西郷隆盛や大久保利通の知名度に隠れがちであったが、小松家について多く記した玉里島津家史料の黎明館への寄贈により、21世紀にその事績の研究と再評価が進んだ。

 

1861年に平佐領主・北郷久信とともに長崎出張を命じられ、1月17日に蒸気船「天佑丸」に乗船して前之浜を出立した。

 

長崎では通詞を雇い、オランダ軍艦に乗船して軍艦操作、破裂弾・水雷砲術学などを修学、八木玄悦、石河正龍らとともに研究している。

 

帰鹿した同年6月に石河によって忠義臨席の下、電気伝導で水雷を爆発させる実演が行われ、これらの功績によって同年5月18日、島津久光の側役に抜擢されている。

 

10月に入って大幅な人事異動により久光体制が確立すると、清廉は御改革御内用掛に任命され、藩政改革に取り組んだ。配下に大久保利通がいた。

 

1862年、大久保や町田久成とともに洋学校「開成所」を設置した。

 

薩英戦争で戦ったイギリスと薩摩の友好に尽力し、五代友厚らを密かに英国へ留学させた。また英国公使ハリー・パークスを薩摩に招き、島津久光と引き合わせた。

 

兵庫が開港されると、大和交易コンパニーという株式会社を設立して貿易拡大にも努めた。

 

西郷隆盛に初めて会いに行った際、西郷が、身分としては遥かに上とはいえ自らより7歳若い小松の度量を試そうと、わざと部屋で横になり小松を待っていたところ、小松はその姿を見て立腹することなく、むしろ西郷のために枕を持って来るよう従者に促したため、西郷はその一言を聞くや居住まいを正し小松に詫び、忠誠を誓ったという。

 

アーネスト・サトウ曰く、「私の知っている日本人の中で最も魅力的な人物」

 

 

 

(30)村田新八(薩摩藩)

村田は年少のときから西郷隆盛に兄事し、尊王の志を抱いた。

 

1867年、西郷の王政復古論で藩論が統一すると、村田は中岡慎太郎らと大村藩・平戸藩などを遊説し、馬関で坂本龍馬・伊藤博文らと会し、毛利公に謁見したのちに上京した。

 

1869年、鹿児島常備隊がつくられたとき、砲兵隊長となった。1870年2月13日、大山巌らとともに西郷隆盛に随従して長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒動の状を視察し、藩知事・毛利広封に謁見した。

 

勝海舟は村田を「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり。惜哉、雄志を齎(もたら)して非命に斃れたることを」と評している。

 

 

 

(25)伊藤博文(長州藩)

日本の初代首相。 明治時代に4度にわたって内閣制度発足以降の内閣総理大臣を務めた。

 

「維新の十傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、三条実美、勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本龍馬)」の1人

 

第1次内閣時には明治憲法の起草の中心人物となり、第2次内閣では日清講和条約の起草にあたった。第4次内閣の組閣に際して立憲政友会を結党して初代総裁となり、政党政治に道を開いた。

 

 

 

(23)品川弥二郎(長州藩)

1859年に安政の大獄で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。

 

1865年、木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力した。

 

1870年、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに6年間留学する。内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。

 

1891年に第1次松方内閣の内務大臣に就任する。西郷従道と協力して政治団体・国民協会を組織する。

 

獨逸学協会学校(現:獨協大学)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献。

 

 

 

(31)井上聞多(馨、長州藩)

第5代 外務卿

第5代 外務大臣(第1次伊藤内閣時)

第4代 農商務大臣(黒田内閣時)

第7代 内務大臣(第2次伊藤内閣時)

第6代 大蔵大臣(第3次伊藤内閣時)

貴族院侯爵議員などを歴任。元老の一人として政財界に多大な影響を与えた。

 

 

 

(34)大木喬任(佐賀藩)

第4代 枢密院議長

第4代 文部大臣(第1次松方内閣時)

第2代 枢密院議長

第5代 元老院議長

第7代 文部卿

第4代 司法卿

第2代 元老院議長

第2代 司法卿

第2代 教部卿

初代 文部卿

第3代 民部卿

東京都の旗 第2代 東京府知事

 

 

 

(32)江藤新平(佐賀藩)

初代 司法卿。東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議、佐賀征韓党首を歴任。

 

立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、わが国近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。

 

 

 

(28)後藤象二郎(土佐藩)

土佐三伯の1人(他に板垣退助、佐々木高行)。娘婿は岩崎弥之助。第9代 農商務大臣(第2次伊藤内閣時)。第2代 逓信大臣(黒田内閣、第1次山縣内閣、第1次松方内閣時)。第2代 大阪府知事。

 

板垣退助とは幼馴染であり、互いに「いのす」(猪之助=板垣)「やす」(保弥太=後藤)と呼び合う仲で、幼少期の2人が喧嘩をした際、後藤が蛇を苦手とすることを知っていた板垣は、決まって蛇を持ち出して後藤を退散させていたと伝えられる。

 

龍馬が提案したと言われている船中八策に基づき、容堂に大政奉還を進言する。この進言後、脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのは後藤の働きによるとされる。

 

 

 

(20)中島信行(土佐藩)

初代衆議院議長。

武市半平太の土佐勤王党に加盟、のちに脱藩して長州藩の遊撃隊に加わり、その後坂本龍馬の海援隊で活躍した。龍馬の死後は陸援隊に参加する。

 

板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となる。

 

1892年にイタリア駐箚特命全権公使、1894年8月7日には貴族院議員に勅選され、死去するまで在任。

 

 

 

(22)中野健明(佐賀藩)

1869年に外務少丞となる。以後、神奈川県大参事、司法少判事、外務権大丞、司法権中判事などを歴任。1871年、岩倉使節団に随行し欧米に遣わされた。

 

1873年8月に帰国し、同年11月、外務一等書記官としてフランス公使館在勤を命ぜられる。1878年7月に帰国。1879年、外務権大書記官・公信局副長に就任。公信局長心得を経て、1880年、オランダ公使館在勤となり、1882年5月に帰国した。

 

1882年6月、大蔵省に転じ大蔵大書記官に就任。以後、関税局長、一等主税官・第一部長、関税局長、主税局長などを歴任。

 

1890年1月、長崎県知事。

1893年1月、神奈川県知事。

 

 

 

(43)勝海舟(江戸幕府)

山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれ、「維新の十傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、三条実美、勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本龍馬)」の1人

 

安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。1860年には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。

 

戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。

 

明治維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。

 

幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。この時、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。

 

咸臨丸には軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟、教授方として佐々倉桐太郎、鈴藤勇次郎、小野友五郎などが乗船。

 

通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込んだ。咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。

 

古来、海舟は咸臨丸艦長として渡米したと言われている(ブルックも同乗時からそう呼んでいる)が、それに反発する諭吉の『福翁自伝』には木村が「艦長」、海舟は「指揮官」と書かれている。

 

しかし、実際にそのような役職はなく、上記のように木村は「軍艦奉行」、海舟は「軍艦操練所教授方頭取」という立場であった。アメリカから日本へ帰国する際は、海舟ら日本人の手だけで帰国することができた。

 

明治維新後も海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。

 

しかし明治政府への仕官に気が進まず、これらの役職は辞退したり、短期間務めただけで辞職するといった経過を辿り、元老院議官を最後に中央政府へ出仕していない。

 

枢密顧問官も叙爵も政府からの求めに応じただけで度々辞退していた。

 

旧幕臣の就労先の世話や事業への資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。

 

戦後は逆賊の臣となり討たれてしまった西郷の名誉回復に奔走し、明治天皇の裁可を経て上野への銅像建立を支援している。

 

海舟は日本海軍の生みの親ともいうべき人物であり、連合艦隊司令長官の伊東祐亨は海舟の弟子とでもいうべき人物だった。

 

坂本龍馬が海舟に心服していたことは姉・乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。

 

さらに、「この頃は軍学者勝麟太郎(海舟)大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候…  すこしエヘン(= 自慢)に顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。

 

 

 

(16)横井太平(熊本藩)

横井小楠の甥にあたり、兄佐平太と共に米国に密航。日本初の官費留学生となる。無理な生活で病を得て帰国。後に熊本洋学校設立に努力した。

 

1863年、坂本龍馬に頼み、戸海軍操練所に入所。1865年に同所が閉鎖されると長崎語学所でフルベッキに英語を学ぶ。

 

 

 

(21)横井左平太(熊本藩)

横井小楠の甥にあたり、弟の太平と共に米国に密航。日本初の官費留学生となる。

 

 

 

(57)横井小楠(熊本藩)

1853年に『文武一途の説』を書いて送り、これにより後に福井藩より招聘を受けることとなる。同年10月、ロシア軍艦に乗ろうとして長崎に向かっていた吉田松陰が小楠堂に立ち寄り、小楠と3日間話し合う。

 

1864年に龍馬は勝海舟の遣いで熊本の小楠を訪ねている。この際、小楠は兄の遺子で自身の甥にあたる左平太と太平を神戸海軍操練所に入所できるよう、龍馬を通じて海舟に依頼した。

 

明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。

 

 

 

(21)日下部太郎(福井藩)

一見すると普通の子供のようだが、読書が好きで10歳の頃には漢文を白文で読める程の学才を持っていた。13歳の時に福井藩校・明道館(当時、この藩校の入学資格は15歳以上の藩士子息だった)に進み学問に励み、21歳の時に山岡次郎とともに長崎へ遊学。

 

そこでは横井小楠の甥である横井左平太(伊勢佐太郎)、横井太平(沼川三郎)兄弟と共にグイド・フルベッキが教える済美館で英語習得に励む。

 

22歳の時に海外旅行免許状―いわゆるパスポート(幕府の免許状発行が4番目であることから当時日本でも留学創成期に渡米したことが窺える)を携え渡米。

 

ラトガース大学入学前に付属中学に入学し英語と基礎教育を受ける。ここの教師をしていた2歳年上でラトガース大学生でもあったウィリアム・グリフィスと出会う。

 

23歳の時ラトガース大学に入学し2年に編入された。藩からの乏しい仕送りだけで赤貧洗うが如き生活の中にあって、常にクラスの首席である程優秀であった。

 

通常4年かかるところを3年で習得し、滞在期間の僅か3年で読破した本はゆうに200冊を超えていたと伝えられる。

 

卒業が近くなった時に、気候風土の違い、貧しい生活、過度の勉学から結核を煩い入院を余儀なくされる。入院中は医師から絶対安静を言いつけられるも隠れて読書し、遂には見つかって全て没収される程であった。

 

静養の甲斐無く、卒業2か月前に26歳で夭逝した。ラトガース大学の校長以下関係者は、この日本最初のラトガース大学留学生であり、内外を通じて抜きんでいた秀才の死を悼み、大学横の墓地ウィロー・グローブ・セメタリーにその亡骸を埋葬し石柱の墓碑を建立した。

 

その墓には、「大日本越前日下部太郎墓」と日本語表記されている。

 

その学業と人格の優秀さを認め卒業生と同格の資格を与え、その大学の優秀な卒業生で組織されたファイ・ベータ・カッパー協会の会員に推薦し、その証の金の鍵(懐中時計のネジ巻きに使うもの)を与えた。

 

同じように金の鍵を与えられている優秀なグリフィスは、日下部から薫陶を受けたことから、8ヵ月後に福井藩に講師として招聘されたことを受けて来日。

 

日下部の金の鍵を故郷の父に手渡し、有名なフルベッキとほぼ同時期の幕末明治維新の志士たちに大きな影響を与えた雇われ外国人の1人となった。

 

 

 

(31)坂本龍馬(土佐藩)

「維新の十傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、三条実美、勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本龍馬)」の1人。

 

司馬遼太郎の「龍馬がゆく」を始め、いくつもの本が書かれていることもあり、幕末の志士で最も有名。

 

幕府の第二次長州征伐では、高杉晋作に乞われて長州側について戦った。仲の悪かった薩長を、グラバーからの武器の購入などでつなげて薩長同盟を成功させて、明治維新の元を作った。

 

人間的にとても魅力があったと思われる。剣の技量がとても高く、拳銃も所持していたものの、複数人による暗殺にて僅か31歳にて死亡。

 

西郷隆盛曰く:

「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず。直柔(龍馬)は真に天下の英傑なり」と龍馬の度量を知り合った有志達の中で最高かつ底知れないものと感嘆している。

 

木戸孝允曰く:

「大兄は御心の公明と御量の寛大とに御任せなられ候てとかく御用捨これなき方に御座候」

 

岩倉具視曰く:

「中岡・坂本二子を見るを得たるは大橋子の恵みなり。誼を条公に通じ、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川五子に結びたるは、中岡・坂本二子の恵みなり」

 

板垣退助曰く:

「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」

 

後藤象二郎曰く:

「(龍馬が生きていれば総理大臣になっていたかの問いに)彼奴は政治家ぢゃない。商売人だよ。三菱だな…」

 

田中光顕曰く:

「闊達磊落な男で、長州で言えば高杉晋作の型に似てる」

 

「(龍馬がお龍を連れて出歩くことに対し)これにはどうにも驚かされた。男女同行はこの頃はやるが、龍馬は維新前石火刀杖の間において平気でこういう狂態を演じていた。そういうところは高杉とそっくりである」

 

土方久元曰く:

「維新の豪傑としては、余は西郷、高杉、坂本の三士を挙ぐべし。三士共に其の言行頗る意表に出で、時として大いに馬鹿らしき事を演じたれど、又実に非凡の思想を有し、之を断行し得たりし」

 

 

 

(27)高杉晋作(長州藩)

「維新の十傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、三条実美、勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本龍馬)」の1人

 

幕末長州藩の尊王攘夷志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。

 

「おもしろきこともなき世をおもしろく」の辞世の歌が有名。

 

師である吉田松陰は晋作の非凡さをいち早く見抜き、剣術ばかりであまり学業に本腰を入れない晋作を奮起させるために、あえて同門で幼馴染でもある優秀な久坂ばかりをべた褒めしたという。

 

晋作は悔しさをバネに自身の非凡さを発揮。玄瑞と肩を並べお互いを切磋琢磨しあうなど、とても優秀であったという。

 

晋作が上海で購入したS&Wモデル2アーミー 33口径6連発を坂本龍馬に贈ったとの逸話がある。龍馬が手紙に「かの高杉より送られ候ビストールをもって打ち払い」と述べている。

 

下関戦争の後の講和会議に、若干25歳の高杉晋作が藩の代表に選ばれ、彦島の租借を求めるイギリス、アメリカ、フランス、オランダ連合軍を交渉でうやむやにあしらって拒んだ。

 

のちに伊藤博文は彦島の前を船で通過した際、「あのとき高杉が租借問題をうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」と語っている。

 

久坂玄瑞曰く:

「思慮周密、その才は当世無比。晋作は遂に吾が及ぶ所に非ざるなり」

 

伊藤博文曰く:

「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」

 

「中々勇悍の人であった。創業的才藻には余程富んで居った」

 

山縣有朋曰く:

 「当時にありて既に群を抜き出でたる高杉なれば、今日にあっても、(伊藤・井上)彼らの比ではあるまいと思う」

 

中岡慎太郎曰く:

 「胆略有り、兵に臨みて惑わず、機を見て動き、奇を以って人に打ち勝つものは高杉東行(晋作)、是れ亦洛西の一奇才」

 

田中光顕曰く:

「自分は維新三傑をことごとく知っている。また坂本、武市、中岡その外、多くの名士先輩に接している。しかしながら、聳然として一頭地を抜いているものは高杉である」

 

三浦梧楼曰く:

「高杉晋作と云う人は全く偉人であったよ。我輩が是れまで偉い人だと思ったのは、この高杉一人だ。実に目先の早い、機敏な人で、臨機応変、奇智沸くが如くであった。

 

(中略)その鬼謀神算、到底常人の遠く及ぶべき所でない。大西郷は偉いというが、高杉は段が違う。大西郷には所作がない。ただボーッとしているだけだが、高杉は機略縦横、ゆくとして可ならざるはなしという人である」

 

 

 

(15)岩倉具定

岩倉具視の次男。第4代宮内大臣、貴族院議員。岩倉家(村上源氏久我家の流れを汲む公家・華族)第16代当主。

 

弟の岩倉具経とともに長崎にあった佐賀藩の英学校・致遠館に派遣され、フルベッキに学ぶ。1870年、米国ラトガース大学に留学し、帰国後は政府に出仕。

 

1882年、伊藤博文の憲法調査に随行して欧州に渡る。1884年に義兄である岩倉具綱の家督を継ぎ公爵。

 

帝国議会開設に伴い1890年、貴族院公爵議員に就任。帝室制度取調委員、爵位局長、学習院院長を歴任。1900年に枢密顧問官、1909年に宮内大臣。

 

 

 

(41)岩倉具視

岩倉具定、具経の父。岩倉具綱の義理の父。日本の公家、政治家。

 

「維符新の十傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、三条実美、勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本龍馬)」の1人。

 

岩倉が設立した私鉄日本鉄道は、東北本線・山手線・常磐線・高崎線やそれらの駅(上野駅・新宿駅・青森駅など)として、JR東日本に受け継がれ現在でも多くの人に利用されている。また鉄道界の発展に大きく貢献した恩人として、上野の鉄道学校は岩倉鉄道学校と改称している。

 

晩年、自力で起き上がれぬほど病状が悪化。明治天皇の見舞いを受けた際は布団に袴を置いて礼装の代わりとし、合掌して出迎えたとされる。

 

勝海舟曰く:

 「度量が大きくて、公卿の中でも珍しい人物であったよ。おれにさえ平気で政治上の事をいろいろ諮問せられた」

 

伊藤博文曰く:

「公は中々聡明英達の人であって、決断もあり、胆力もあり、かつ実に明弁であった。明弁にしてことの是非得失を観ることが明らかの人であった。我輩は岩公にいうた『閣下がもし元弘建武の世に生まれたならば、決して新田、足利をして争わしむることなく、王政復古は二百年前に出来たであろう』と。公は実に一世の豪傑であった」

 

 

 

(13)岩倉具経

岩倉具視の三男。

1868年、元服して昇殿を許され勘解由長官に任じられた。1869年、具定とともに佐賀藩校致遠館に派遣されフルベッキに学ぶ。

 

1870年、アメリカ合衆国へ留学、1873年には最初の日本人学生としてオックスフォード大学に留学。

 

1878年、太政官権少書記官・法制局専務。以後、兼大蔵権少書記官、大蔵権少書記官兼太政官権少書記官などを歴任。

 

1884年7月8日、男爵を叙爵。同年9月、外務書記官に転じロシア公使館で勤務。帰国して1890年に宮中顧問官に就任。

 

 

 

(24)岩倉具綱(*)

岩倉具視の娘婿。

1883年、岩倉具視の死により家督を継承。翌1884年7月7日(華族令施行と同日)付で隠居し、岩倉家の家督を具視の実子(二男)である岩倉具定に譲った。

 

掌典長を長く務め、1915年に宮中顧問官

 

 

 

(24)岡本健三郎(土佐藩)

坂本龍馬らと交流を持って国事にも奔走する。1867年、龍馬とともに由利公正を訪ねて維新後の経済政策を聞き出している。

 

維新後は大阪府に勤め、土木頭、治部司、太政官権判事、大蔵大丞を歴任。

 

1872年、博覧会用務でオーストリアへ派遣された。1873年、明治六年政変で板垣退助らとともに下野し、退助らとともに民選議院設立建白書を作成。

 

1885年、土佐人である岩崎弥太郎が設立に関わった日本郵船の理事に。

 

 

 

(38)副島種臣(佐賀藩)

侍講兼侍講局総裁、参与兼制度事務局判事、参議兼大学御用掛、内務大臣(第4代)、枢密院副議長(第2代)、外務卿(第3代)、外務事務総裁、清国特命全権大使、宮中顧問官、興亜会会長、東邦協会会頭、愛国公党発起人等を歴任。位階勲等は正二位勲一等伯爵。

 

 

 

(13)大室寅之佑

年齢、詳細共に不明。

 

 

 

(33)広沢真臣(長州藩)

1866年8月末の第二次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉し、また、同年10月に坂本龍馬や薩摩藩の五代才助と会談して「商社示談箇条書」を作成。

 

薩長国産貿易商社の設立に尽力する(後日、計画は破談)など、木戸の代理人かつ同僚として奔走し、1867年10月には大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。

 

維新政府の発足後は、参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任。

 

戊辰戦争では、米沢藩の宮島誠一郎と会談して会津藩「帰正」の周旋を建白させるなど、木戸と同様に寛典論者であった。

 

明治2年1869年、復古功臣として木戸や大久保利通と同じ永世禄1,800石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。

 

 

 

(18)江副廉蔵(佐賀藩 *)

佐賀藩校致遠館でオランダ人アメリカ宣教師のフルベッキ博士より英語を学ぶ。

 

1869年、清国上海に渡航。1871年、北海道開拓使出使、参謀本部出使まで昇進するも辞職。

 

1877年、フィラデルフィア万国博覧会で通弁として活躍。1879年、ニューヨークにタバコ売買の支店を開設。

 

1882年に横浜、1886年に東京に店舗を開設。1896年に政府の命令で満州にタバコ販売店を開設。

 

 

 

(27)大隈重信(佐賀藩)

参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。早稲田大学創設。同志社大学社友。

 

幕末の佐賀藩上士出身で明治後半まで活躍した元勲には井上馨、板垣退助、後藤象二郎ら総理大臣には就けなかった者が多いが、大隈は数少ない例外である。

 

伊藤と岩倉は11月12日より岩倉使節団として欧州に出発し日本を不在にしたため、日本初の鉄道開業は留守を司る大隈のもとで行われることになった。

 

1872年6月12日(明治5年5月7日)に品川-横浜間で仮営業を開始し、同年10月14日(明治5年9月12日)に開業している。

 

 

 

(28)中岡慎太郎(土佐藩)

薩長連合、薩土密約、大政奉還は、テレビドラマや歴史小説などフィクションの世界では坂本龍馬が中心に描かれているものが多いが、歴史研究者の立場からは、史実ではその発想や行動において中岡が真の立役者であったとする意見が多い。

 

1862年、長州藩の久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。

 

は『時勢論』と題した政治論文を著し、日本の国家としての展望と、土佐藩の執るべき指針を説く。

 

高杉晋作、太田民吉(本名・広田精一。宇都宮浪士)と共に、島津久光の暗殺を企てたことがあった。

 

下関戦争における長州藩の敗戦から、攘夷の無謀を悟った慎太郎は、開国による富国強兵論へ転じる。

 

また、禁門の変以降朝敵と定められ、幕府による再討(第二次長州征伐)が迫りつつあった長州藩の救援と、雄藩連合による国家の再建を実現するため、土佐浪士の土方久元らと共に、薩長同盟の実現を目指して周旋を開始する。

 

この動きに、長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬なども賛同し、1866年3月、京都二本松薩摩藩邸(現在地・同志社大学)で薩長を和解させ、堀川通一条東の近衛家別邸(薩摩藩家老・小松清廉寓居/御花畑御屋敷)において薩長同盟を締結させた。

 

近江屋で坂本龍馬と一緒に襲われたが、彼は即死せず二日間生き延びて、刺客が「こなくそ」(四国方言)と言いながら襲ってきたと話している。

 

板垣退助曰く:

 「中岡慎太郎という男は本当に立派で西郷、木戸らと肩を並べて参議になるだけの智略と人格を備えていた」

 

 

 

(33)桂小五郎(木戸孝允、長州藩)

明治維新の元勲として大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。

 

「維符新の十傑(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)、岩倉具視、三条実美、勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、中岡慎太郎、坂本龍馬)」の1人。

 

1849年に吉田松陰の門弟となり1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ。

 

1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり高杉晋作や久坂玄瑞らと並んで藩内の尊王攘夷派の指導者となった。

 

1866年には藩を代表して薩長同盟を締結している。

 

新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任。1868年に五箇条の御誓文の起草・監修にあたり明治維新の基本方針を定めた。

 

版籍奉還や廃藩置県など、封建的諸制度を解体して近代社会(市民社会・資本主義社会)と中央集権国家確立をめざす基礎作業に主導的役割を果たした。

 

1849年、吉田松陰に山鹿流兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。

 

江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、新太郎の指南を受ける。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となった。

 

大柄な小五郎が、得意の上段に竹刀を構えるや否や「その静謐な気魄に周囲が圧倒された」と伝えられる。

 

小五郎と同時期に免許皆伝を得た大村藩の渡辺昇(後に、長州藩と坂本龍馬を長崎で結びつける人物)とともに、練兵館の双璧と称えられた。

 

1857年、江戸・鍛冶橋の土佐藩上屋敷で開催された剣術大会で坂本龍馬と対戦し、2対3で龍馬が敗れたと記録する史料が、2017年に発見された。

 

1859年、吉田松陰が処刑される。小五郎は、伊藤博文らと共に遺体をひきとり、埋葬した。

 

下関戦争の際に、イギリス公使パークスは木戸に和議を勧めた。これに対し木戸は、「さきに攻めてきたのは幕府ですから、幕府のほうが停戦を求めてきたら考慮します」と、和議の勧告をきっぱりと拒絶した。

 

『幕府の大軍に包囲されているにもかかわらず、この長州の代表者はいささかの弱みも見せず、毅然とした態度を崩そうとしない』『どうやらこの木戸という男に脅しは通用しない』と、長州藩の本気をパークスは悟って、以後、和議に触れることはなかったという。

 

1871年7月9日、木戸邸に大久保利通、西郷隆盛の他に、西郷従道、大山巌、山県有朋、井上馨らの薩長要人が集まり、廃藩置県断行の密議が行われた。

 

大隈重信曰く:

「我輩が敬服すべき政治家は一に木戸公、二に大久保公で、何れも日本に於ける偉大な人傑、否な日本のみならず、世界的大偉人として、尊敬すべき人物である」

 

伊藤博文曰く:

「岩倉、木戸、大久保三公はとにかく度量といい決断といい胆力といい時流に卓絶しておった。我輩の先輩として見る所では彼の三人には一人も及ぶものはない」

 

 

 

(42)大村益次郎(長州藩)

維新の十傑の一人。戊辰戦争では東征大総督府補佐となり勝利の立役者となった。

 

太政官制において兵部省初代大輔(次官)を務め、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖とされる。

 

1842年、防府でシーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田に向かい、4月7日広瀬淡窓の私塾咸宜園に入る。

 

1844年6月まで漢籍、算術、習字など学ぶ。同年、帰郷して梅田門下に復帰後、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。

 

適塾在籍の間に長崎の奥山静叔のもとで1年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。

 

1857年11月11日、築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。その内容の素晴らしさは当時では最高水準のもので、1858年、幕府より銀15枚の褒章を受けた。

 

 

 

一般的に知られている、今でも残っている幕末の各志士の写真と比べると似ていないものもあるので、正確なところは分かりません。

 

但し、それは一般的に知られている画像とこの画像では、写真写りや撮影時の年齢の差からきているのかもしれません。

 

いずれにしても、幕末や明治新政府で活躍したこれだけ多くの志士が、フルベッキ博士を取り囲んで集まった記念写真が存在するのは驚きの事実です。

 

 

(18)江副廉蔵(佐賀藩 *) 、(24)岩倉具綱(*)

⇒ 江副家の子孫の方々、郷土史家・末岡暁美さんによると、前列左から4人目ではなく、前列左から3人目のよう。

 

 

出典: 文芸社、山口貴生著

「日本の夜明け・フルベッキ博士と幕末維新の志士たち」

Wikipedia

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