他のアジア諸国のように、西洋の植民地になるのを防ぐかのように長く続けられた鎖国が、その当時に日本にはまだ存在しなかった、蒸気で動く黒い巨大な軍船を率いたペリーに無理やり開国させられました。
260年間続いた江戸幕府が終わりを告げて、明治維新によって新政府が誕生しました。
海外では普通そういう場合は、多量の流血、死傷者をともなう革命が起こりますが、明治維新では旧体制である幕府軍と、新体制である明治政府軍との間で戊辰戦争は起こりましたが、江戸城の無血開城など、海外と比べるととても少ない死傷者数で体制の大変革が完了しました。
明治維新については、日本に興味を持つ外国人の多くが、私たち日本人が驚くほど知っています。
幕末までの日本男児はちょんまげを結って頭に乗せてスカート(袴)をはき、腰には人殺しのための刀をぶら下げた姿をしていました。
その姿は武士の階級だけでしたが、当時から海外に知られていたのはやはり武士でした。
その姿は、西洋の先進国の人々には未開の地の文化が遅れた奇異な民族として映っていたようです。
鎖国をしていた時代には、江戸文化で芸術が発展して、浮世絵はゴッホやモネ、ルノワール、ゴーギャンなど多くの印象派画家に影響を与えました。
「全ての私の作品は、多かれ少なかれ浮世絵の影響を受けている」とゴッホが画商である弟のテオに書いた手紙が残っています。
江戸文化はジャポニズムと呼ばれて、陶器、漆器、建築、庭園、金細工、家具工芸品、文学などがアール・ヌーボーの作家など、西洋に大きな影響を与えました。
1659年にヨーロッパへの輸出が始まった日本の瀬戸物、伊万里焼や有田焼も、ドイツのマイセン、フランスのシャンティー、イギリスのチェルシーに大きく影響しています。
鎖国をしていた徳川政権下の日本は国外から攻められることもなく260年間もの長い間、平和が続きました。
戦国時代には、西洋から伝わった鉄砲をすぐに国内で作れるようになり、量産までして世界一の鉄砲国になったにもかかわらず、江戸時代にはその鉄砲を捨てるかのように刀に戻ってしまいました。
ノエル・ペリンという、あるアメリカの教授が著書「鉄砲を捨てた日本人」の中で、そのことを「日本人の美学」のように書いています。
一瞬にして相手を殺傷してしまう鉄砲は単なる殺人兵器でしかなく、切り傷や痛みが目に見えて実感できる刀とは違うというわけです。
武器というものを常に発達させ続けてきた世界の武器の歴史から言うとそれは前代未聞、世界唯一のことだそうです。
日本が鎖国中の欧米では、蒸気機関の発明もありましたが、鉄砲や大砲などの武器も発展させ続けてきたので、幕末の頃の日本のそういった面での技術はかなり遅れていました。
それにもかかわらずに、明治維新により、封建社会から革命もなく一気に中央集権統一国家となって資本主義化し、近代国家がとても短い間に完成したことに、多くの外国人がとても驚き興味を持ちます。
そして当時でも大国、強国として軍事力で日本をはるかに凌ぐ清国(中国)を日清戦争で、ロシアを日露戦争で負かしてしまいました。
その結果に世界中が驚いただけではなく、ロシアからは常に脅威を受け続けていた北欧・東欧諸国やトルコ、アジア諸国やインドなどで大歓迎されました。
「自分(= ネルー)がまだ子どもの頃に、日露戦争での日本勝利という誰もが予想もしていなかったことが起こりました。非白人国の日本が、白人国のロシアに挑んでこれに勝利したという事実に、私は踊り上がらんばかりに喜びました。
インドのイギリスからの独立に生涯をかけようと自分に決意させたものは、日露戦争における日本の勝利です。日本のように団結して事に臨めば、独立は必ずや可能になる。そのことを日本の勝利が教えてくれたのです」ネルー インド初代首相
今日、多くの日本ファン外国人がいますが、その中でも特にインテリ層は、幕末から明治にかけてのそんな日本の急発展にとても興味を示します。
「西洋から遅れていた日本が、なぜ短期間の間にそんなに発展できたのか?」
その答えは実は、日本を開国させた黒船の指揮官であるペリーが残した言葉に表れています。
「実用的、機械的技術において日本人は非常に巧緻ををしめしている。(中略) 彼らの手作業の技術の熟練度は素晴らしい。日本の手工業者は世界のいかなる手工業者にも劣らず練達である。
よって国民の発明力が自由に発揮されるようになったら、最も進んだ工業国に追いつく日はそう遠くはないであろう。他国が発展させてきた成果を学ぼうとする意欲が盛んで、学んだものをすぐ自分なりに使いこなすことができる。
だから、国民が、外国との交流を禁止している排他的政策(鎖国) が緩められれば、日本はすぐに、最も恵まれた国の水準までに達するであろう。文明世界の技能を手に入れたならば、日本は将来きっと機械工業の成功を目指す強力な競争国となろう」M・C・ペリー著「ペリー提督日本遠征記 上・下」角川ソフィア文庫
日本は、太古の昔から天災、自然災害に見舞われ続けてきたので、家やインフラなどが破壊されても、常にその困難を克服してコツコツと頑張る国民性が育まれてきました。
それは311の時の被災地の人たちの態度やインフラの回復力の速さでも世界中で驚かれ称賛されました。
明治維新は、元々日本人が持つ真面目さ、謙虚さ、我慢強さ、鎖国の始まる前の時点での技術力から考えると、不思議でもなんでもないわけです。
とは言っても、幕末当時の日本の技術力、医学、政治、軍事、法律などは先進西洋諸国と比べるとあらゆる点で遅れていたのは事実です。
そこで多くの雇われ外国人が活躍しています。当時の優秀な日本人は少しでも早く西洋に追いつけと、死に物狂いで勉強に励みました。そうしないと西洋に国を奪われて植民地になってしまうという恐怖がありました。
雇われ外国人とは、当時の多くの日本の志士たちに、外国の言葉や、あらゆる進んだ西洋先進国の医学、政治、法律、経済、教育などを日本に来て教えていた人たちです。
その中でも特に有名な一人が次の画像でも知られたフルベッキ博士です。