1人あたりのインスタントラーメン消費量が世界一の韓国。
多種多様な商品が流通しているが、韓国内で最初に登場したのは、元祖である日本のチキンラーメンが登場してから5年後の1963年に発売され、今も根強い人気を保っている三養(サミャン)食品の「三養ラーメン」だ。三養ラーメン誕生の背景には、三養食品と日本の明星食品の創業者2人の運命的な出会いがあった。
初対面でありながら、明星食品から三養食品に、無償で製造技術が提供されたばかりでなく、企業秘密ともいえる原料の配合表(レシピ)まで伝えた。
そんな常識ではありえない交渉が実現できた背景には何があったのだろうか。(張英壽)
韓国人にも知られていない歴史:
三養食品は自社のホームページ(HP)で、明星食品から技術導入したことを明らかにしているが、韓国の人々はこの事実を知っているのだろうか。
韓国語がそこかしこで聞こえる大阪・ミナミの道頓堀(大阪市中央区)で、韓国人に聞いてみた。
「三養ラーメンはあまり辛くない味が好きだけど、そんなことがあったとは知らなかった」と、釜山市の男性会社員、金●(=日へんに文)奎(キム・ミンギュ)さん(25)。
ソウル市の男子大学生、金先真(キム・ソンジン)さん(22)も「そんな歴史は知らない」という。
ソウル市の男性会社員、金閔謙(キム・ミンギョム)さん(28)は「今はさまざまなインスタントラーメンがあり、三養ラーメンも食べますが、日本から技術が伝わったとは知らなかった」と話した。
三養ラーメンは、激辛麺が席巻している韓国の即席麺市場にあって、あまり辛くない味が特徴。激辛が好きな人には物足りないかもしれないが、定番の即席麺としてファンは多い。
だが、韓国の若者の多くは、この三養ラーメン誕生の背景に、日韓協力があったことを知らないようだった。
一方、年配層では、知っている人もいた。
「日本からの技術導入は知っていた」と話した釜山市のスーパー経営の60代男性は「日韓の間には、政治的にはいろいろなことがあるが、人と人との関係にはいいこともある」と感想を語った。ただ、男性は無償で技術提供されたことは「知らない」と話した。
当時は世界最貧国、食糧問題解決策として
日本の明星食品から無償で技術提供を受け、三養ラーメンを開発したのは三養食品創業者の故全仲潤(チョン・ジュンユン)名誉会長(1919~2014年)だ。
三養食品のHPでは、インスタントラーメン開発を思い立った経緯をこう記している。
「今でこそ軽い食事としてインスタントラーメンは食べられているが、1963年に三養ラーメンが初めて登場したとき、国内はまだ空腹に苦しむ人が多かった。
全会長は60年代初め、(ソウルの)南大門市場を通りがかった際、人々が、一杯5ウォンの残飯がゆを食べるために長い列をつくっていたのを目にし、庶民の空腹を解決しなければならないと決心した」
60年代初めの韓国の1人あたりの国内総生産(GDP)は100ドル台前半。2015年(2万7222ドル)の200分の1以下で、当時は世界最貧国の一つだった。
三養食品によると、かゆは米軍部隊の残飯を使ったものだったという。現在の韓国からは想像もできない光景だ。
さらにHPは次のように続く。
「全会長はかつて日本を訪れたときにインスタントラーメンを食べたことを記憶しており、苦悩の末、食糧問題を解決できる唯一の道と考えた。
政府を説得し、なんとか5万ドルを借り、日本の明星食品から機械と技術を導入し、ついに1963年9月15日、国内で初めてインスタントラーメンが発売された」
明星食品の技術提供は無償。そのうえ三養食品に重要な原料の配合表(レシピ)さえ教えた。
日清食品ホールディングスなど世界の即席麺メーカーが会員になっている「世界ラーメン協会」(本部・大阪府池田市)の櫻井功男(のりお)事務局長は「原料の配合表はスープなどをつくるのになくてはならないもので、企業のトップシークレット。
同じ会社内でも、おいそれとは教えない。それを他企業に教えるということは今の常識では考えられない」と驚く。
羽田空港で伝えられた企業秘密「原料配合表」
なぜそんなことが可能だったのか。全氏と明星食品の当時の社長、故奥井清澄氏との運命的な出会いが大きな原動力となった。
その当時のことについては、昭和61年に刊行された明星食品の社史「めんづくり味づくり 明星食品30年の歩み」(引用は平成15年ゆまに書房発行の復刻版から)に、全氏の回想として詳しく記されている。
この回想や、三養食品への取材を合わせると、韓国の食糧不足に危機感を抱いていた全氏は、昭和34(1959)年ごろ、日本でインスタントラーメンを試食し、「いつかこれを手がけてみたい」と考えた。
そして三養食品前身の三養工業社長だった同38(63)年春、インスタントラーメンの機械の輸入や技術提携のために、日本を訪れる。しかし、日本で接触した即席麺の会社は、難しい条件や多くの金額を要求した。
そんな中、全氏は、知人の紹介で、明星食品社長の奥井氏と会い、韓国の食糧事情を詳しく説明した。回想によると、面会の翌日、奥井氏からはこんな回答があったという。
「全さん、全面的に協力しましょう。技術料はいっさい不要です。6・25戦争(朝鮮戦争)でお国はたいへんな災禍を受け、傷つかれました。
日本は特需景気でもうけ、明星食品は直接その恩恵を受けたわけではありませんが、無関係ではありません。民間外交のつもりでやりましょう。
技術料はもちろん、ロイヤルティも不要です。設備いっさいの引き渡し価格1千万円で結構です」
全氏の資金は5万ドルだったが、設備などの価格は、1千万円をわずかに下回る額で、ドル換算で2万6800ドルで決定したとしている。
三養食品によると、2人は初対面でありながら、古い友人のように意気投合したという。
回想では、全氏は工場で10日間の実習も受けたうえ、帰国の際、羽田空港で、インスタントラーメン製造に重要な原料の配合表(レシピ)までもらったと記されている。
一方、三養食品によると、羽田空港で全氏に、奥井氏の秘書を通じて渡された親書には、「数日間一緒にいて、全氏の清廉潔白で、良心的な経営人の姿を目にし、私たちの出会いに感謝する意味から原料配合表を伝える」と書かれていたという。
全氏は明星食品社史で「ここまでやって来られたのも、明星食品のおかげ」と感謝の言葉をつづっている。
日韓協力の先駆け、広がる「ラミョン」
この劇的ともいえる2人の出会いのおかげで、韓国初のインスタントラーメン「三養ラーメン」が出会いの年の63年に誕生した。
初代パッケージには「明星食品株式会社と技術提携」と記された。韓国語のラーメンの発音は「ラミョン」。
発売以降、この言葉は韓国に広まっていく。日韓が国交正常化したのは2年後。日韓協力の先駆けともいえるできごとだった。
ただ、軌道に乗るまで、さまざまな困難もあった。
三養食品によると、三養ラーメンの発売当時の価格は10ウォン。韓国では、コーヒーが35ウォンだった。
一方、日本では、コーヒー60円、インスタントラーメン1袋35円程度の時代で、三養ラーメンの価格がかなり抑えられていることがわかる。
奥井氏は「あまりに低い価格ではないか」と問うたが、全氏は「食糧難の韓国の状況では、だれもが腹一杯食べようとすれば、この程度の価格にするのが適切」と答えたという。
しかし、発売当初は「ラミョン」という言葉が耳慣れず、消費者の反応はよくなかった。このため、街頭で人々に無料で食べてもらうなどし、味を知ってもらった。
また三養食品は当初、明星食品の製造技術をそのまま導入し、模倣するだけだった。しかし、日本と韓国の味の嗜好(しこう)が大きく異なっていたため、66年に実験室を発足させ、韓国式スープの開発を本格化させた。
努力のかいもあって、60年代の売り上げは前年比で最低36%、最高254%まで伸びた。それでも設備投資などのために最初の3年は赤字だったが、三養ラーメンの人気は沸騰した。
世界ラーメン協会によると、2015年の韓国の1人あたりのインスタントラーメン消費量は世界一の約70食。激辛味などさまざまな商品が発売され、いずれも50食あまりの2位のインドネシア、3位のベトナム、40食あまりの日本などを大きく引き離している。
まさにインスタントラーメンが「国民食」になっている。
三養ラーメンを主力商品にした三養食品(前身の三養工業時代などを含む)は、60年代から80年代中盤まで韓国の即席麺業界でシェアトップを維持していたが、86年に発売された農心(ノンシム)の「辛ラーメン」に押されるようなる。
それでも三養ラーメンは定番として韓国人に愛されており、三養食品は現在でも業界3位に位置している。
全氏は名誉会長だった2年前、亡くなった。94歳だった。
「何とかしたい」全氏の熱意に「男惚れ」
戦前の韓国で生まれ、全氏と3回にわたって面談した元同志社大大学院教授の林廣茂氏(76)=マーケティング=は全氏について「人間的な魅力にあふれた人だった。
国に対する思いが強く、韓国民の飢えを救いたいという思いにかられていた」と話す。
さらに「当時の韓国の食糧難を何とかしたいという全氏の熱意に、明星食品の奥井氏も感動、いわば『男惚れ』し、原料、つまり最大の企業秘密であるスープの配合表まで教えたのだろう。
全氏はインスタントラーメンという韓国の『国民食』をつくった偉大な人物だった」と評した。
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