日本語は人を優しくする
ドイツ人2人がドイツ語で話をしていると、ドイツ語ができない日本人にとっては、それがまるで喧嘩をしているのではないかと聞こえる時があります。
話の内容を理解できれば、それが決して喧嘩をしているわけではないことが分かりますが、喋り方からそう聞こえてしまう時があるのです。
会話の雰囲気が激しく感じられるからです。
勿論全てのドイツ人同士の会話がそうであるわけではなく、おとなしく話しているように聞こえる時もあります。
ところが、日本語が多少出来るドイツ人が日本語を話すと、とても優しく、可愛く感じられます。
ドイツ語を話していると、そのようにとても威勢が良く聞こえるように話す人でも、いざ日本語で話し始めると、とても優しく聞こえます。
良く言えば優しいというか、可愛いというか、控え目のイメージというか、悪く言えば押しが弱いと言うか…
日本語の仕組みが、日本人の国民性から来ているのは明らかです。
日本語は、特に「私」という主語を控え、相手との調和を重んじる表現方法をします。
一般的な日本人が小さな時から躾けられる、「人に迷惑をかけないようにする」、謙遜、謙虚、謙譲、気遣い、気配りです。
でも謙遜、謙虚、謙譲、気遣い、気配りは世を平和に導くものではないでしょうか?
個人主義、自己主張がはびこる世界に少しでも謙遜、謙虚、謙譲、気遣い、気配りが広まれば、世の中の争いごとは間違いなく減るはずです。
日本人のように、事あるごとに「すみません」、「ごめんなさい」を連発していれば、争いごとが絶えない地域もかなり平和になるのではないでしょうか?
ドイツ人の中にも勿論、謙遜、謙虚、謙譲、気遣い、気配りのある人はいます。
そして日本人のお婆さんのように腰が低くてすぐに謝るドイツ人のお婆さんもいます。
そういうお婆さんは熱心なキリスト教信者だったりします。
よってそれは決して日本人だけがそうなのではありませんが、一般的に比較するとそうなります。
英語をはじめとするヨーロッパの言語でそれはあり得ません。
必ず主語の「私」を言います。
主語を使わないと文章が成り立ちません。
それには理由があります。
大陸では、太鼓の昔から隣の国などとの戦争が絶えませんでした。
歴史と共に国境が変化しました。
つまり、日本のように島国で安全ではなく、敵がすぐ側にいるかもしれないという危険感と常に背中合わせであった歴史があります。
そこで欧米や中国などの大陸では、日本と真逆の躾、教育が行われ続けてきました。
家庭で幼児の頃からすぐに個室で寝る、学校に通い始めれば個人主義、自己主張を叩き込まれます。
日本の小学校の成績は、テストの結果が物を言いますが、欧米ではどんなにテストの成績が良くても、授業中に盛んに手を上げて発言、自己主張をしないと良い成績をもらえません。
自己主張、利己主義を教えられて、少しでも早く自立して自分を守れということです。
つまり、自己主張、個人主義の大陸の国の言葉と、謙遜、謙譲、謙虚の島国日本の言葉の違いです。
25年間外国人に日本語を教えてきた筑波大学名誉教授で社会言語学者、津田幸男名誉教授も、「外国人が日本語を学ぶと、不思議にも穏やかになる」と言っています。
日本語には人を穏やかにする「平和の力」が秘められているのです。
Kang Sanghunさんという在日韓国人で、日本でハングル語の先生をしている人のコメントがあります。
「日本人の10人と知り合えば、嫌で嫌いな人の割合は1人です。韓国人の場合は3人位。日本は悪口の言葉が少ないと思います。韓国はすごく多いし激しい。気が短くて、喧嘩になると乱暴な言葉でやり合います。以前、日本語学校にいた時、中国人と韓国人が覚えたての丁重な日本語で喧嘩したのを見た時は、迫力がなくて見ていておかしかったです。
出典: 私は日本のここが好き、加藤恭子、出窓社
子供の頃から自己主張を叩き込まれる西洋では、言語もそのようになっています。
主語である例えば「私」抜きでは文章が成立しません。
ところが日本語の場合は、とても頻繁に「受け身・受動態」が使われます。
「女房に逃げられた」
「泥棒に入られた」
「先に何々されてしまった」
「そこに寝られると通れない」
「そばでタバコを吸われるのは嫌だ」
「あなたに死なれると困る」
これらの受け身の表現は、他の言語に直訳することが出来ません。
そこには、責任は私にあるという発想が隠れています。
「女房が逃げた」ではなくて、「逃げられた」と言って、そこには逃げられた自分に何か至らない点があったのではないかと暗に示唆して相手の責任にしてしまっていないところがあります。
拓殖大学国際学部教授
呉善花著「日本の曖昧力」PHP新書
1983年来日、1988年日本に帰化
これも日本人が太古の昔から人智ではどうにもならない天災、自然災害に遭い続けてきたことが関係していないでしょうか。