和歌山県の上山英一郎(大日本除虫菊株式会社の創業者)は、1886年に福澤諭吉より紹介されたH.E.アモアより除虫菊の種子を譲り受ける。
上山は、平安時代から日本に残る伝統的な風習「蚊遣り火」のように粉末状にした除虫菊におがくずを混ぜて燃やす方法を考えたが、夏に季節はずれの火鉢が必要であったために普及には至らなかった[7]。
そこで上山は、今度は線香に除虫菊を練り込むことを考案、1890年に世界初の棒状蚊取り線香「金鳥香」が誕生した[8]。
棒状のものが製造されていたが粉末のものは扱いにくく、棒状のものは立てて使うために線香が倒れ火災が発生することも少なくなかった。
最大の欠点は、線香の形状から長時間の燃焼が難しかったことで、約20cmの長さで約40分が限界だった。棒状線香を単純に伸ばしただけでは燃焼中に倒れやすくなるので、延長にも限度があった[7]。
現在、日本で普及している渦巻き形の蚊取り線香のデザインは、1895年からのものであり、上山の妻・ゆきの発案とされる[8](倉の中でとぐろを巻く蛇を見て驚き、夫の元に駆けつけ告げたのが発想の元になったという)。
このデザインにすると、燃焼時間が長くなり、かつ嵩張らない。例えば、大日本除虫菊の製品では渦巻きを解きほぐすと、全長は75cmに達し、一度の点火で7時間使用できる[9]。
この7時間とは、睡眠時間に合わせたものである。また、寝かせた状態で使うので、従来の形状よりも安全に取り扱えるようになった。
なお、考案されてから長きにわたり、人の手によって渦巻き状に成形してから、乾燥させて固める生産方式を採っていたが、1955年ころから自動化により、現在の渦巻き型の型抜き機械による成形に移行した。
他に短時間用・長時間用・線香が太い物などの種類があり、外国産のものには、四角形や六角形のものもある。
蚊取り線香の歴史 編集
1886年(明治19年) 除虫菊がアメリカ合衆国から渡来し、和歌山県、東京都、熊本県などで栽培され始める。
和歌山県のみかん農園であった上山も種子交換により播種、栽培をはじめる。
1888年(明治21年) 上山により粉末状の蚊取線香が作られる。
1890年(明治23年) 棒状の蚊取線香が作られる。
1895年(明治28年) 渦巻き型の蚊取線香が作られる。
1955年(昭和30年)頃 合成ピレスロイドの実用化が始まる[1]。
発明されてから100年近く経つ事と、蚊遣り火と混同され、時折時代劇で時代考証の間違いとして、蚊取り線香を使用しているシーンがある[独自研究?]。
映画『この一筋の煙に』 編集
蚊取り線香の研究開発の様子やプロセスを紹介する映画『この一筋の煙に 大日本除虫菊中央研究所』が、大阪万博開催の前年にあたる1969年(昭和44年)、大日本除虫菊の企画の下、東京文映により製作された《カラー・21分》。
映画タイトルの通り、大日本除虫菊の研究施設(大日本除虫菊中央研究所)で繰り広げられる蚊取り線香の研究開発の現場を映し出しているが、これと共に、大日本除虫菊による蚊取り線香発明の歴史についても若干触れられている。
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