1893年,御木本幸吉が貝殻内面に付着した半円真珠の養殖に成功しました。それは地蒔式と呼ばれ、貝を繁殖させて、海女が収穫しました。
「これは養殖ではなく、真の真珠だ。実は自分の研究所でできなかったものが二つある。ひとつはダイヤモンドで、いまひとつは真珠である。あなた(御木本幸吉) が動物学上からは不可能とされていた真珠を発明完成されたことは世界の脅威だ」トーマス・エジソン 発明家、GE創業者(1847-1931)
1904年、見瀬辰平・西川藤吉によって、現在の真珠養殖の基礎原理である、ピース式と呼ばれる、核に外套膜を付着させて真珠を形成する方法を考案し、真円真珠の養殖に成功しました。
1916年には藤田昌世によって高知県宿毛市で5mmを超える大粒真珠(当時)の養殖が実用化され、日本の真珠養殖の技術が確立されていきました。
真珠王国日本
世界で空前の真珠ブームが起こるなか、真珠は日本だけが供給できる特別な宝石となっていました。日本を一大生産国にしたのは、GHQによる改革でした。
1947年の独占禁止法や1949年の新漁業法によって御木本などの大手真珠養殖会社の漁場が解放されると、人々は家族で真珠養殖業に乗り出していきました。
当時真珠養殖の中心地は三重県で全国の生産量の9割以上を占めていました。三重県が過剰生産を緩和するため生産規制に乗り出すと、規制を嫌った業者らが、四国や九州に進出し真珠養殖は一気に西日本に広がりました。
養殖業者は増え続け、1960年代には7mm珠が主流になり、6mmの核をいれ3年かけて養殖し、7mmの真珠を作っていました。
こうして真珠養殖は、これまでにおもな産業がなかった沿岸地帯を収益性の高い地域に変え、地場産業になっていきました。日本政府は1955年に国立真珠研究所を開設し、真珠養殖業を国策としました。
真珠養殖技術はめまぐるしい進化を遂げ、大量生産への道が開かれていきました。1961年真珠は生産の98%がアメリカ・スイス・西ドイツ・香港・イタリアなどに輸出されました。
輸出の中心地となったのは神戸で、神戸にはもともと真珠の加工業者や卸業者が多くありましたが、戦後、真珠検査機関が置かれたことで、日本の真珠の大部分が神戸から輸出されるようになりました。
当時、真珠産業は不況知らずの成長産業でしたが、その真珠の輸出が突然止まることになります。
輸出が止まった原因はミニスカートの大流行でした。ロンドンのストリートファッションから始まったミニスカートは、1966年~67年にかけて世界的な大ブームとなりました。
ミニスカートと真珠は相性が悪いとの理由で、真珠は流行のファッションから取り残され、真珠不況が始まりました。さらに過剰生産が続き、品質低下も同時に起こっていました。
こうして、外国人バイヤーが突如真珠を買わなくなり、真珠輸出額は1971年にはピーク時の約半分となり、真珠の浜上げ価格も半値から3分の1に下落しました。
水産庁と真珠業界は不況対策に乗り出しましたが、市況は好転せず、真珠養殖業者は次々に転業していきました。
しかし,1973年になると、生産調整や不況カルテルの効果によって潮目が変わり始めました。市場に出回る真珠の量が減少すると、外国人バイヤーの間に品薄感が広がり、真珠需要が復活していきました。
さらに追い風となったのはミニスカートに代わってイヴ・サンローランの「マキシ・スタイル」が流行したことでした。
マキシ・スタイルには真珠のネックレスを合わせることが、最先端のファッションになり、外国人バイヤーの真珠の買い付けが増加しはじめました。
Tensei Perl
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