自動炊飯器は半世紀ほど前に日本で発明され、この果てしなく辛い台所仕事を、米と水を計量しボタンを押すだけに一変させた。
この機器は全能かと思えるほどだ。米と水を正しい割合で入れる限り、失敗はほぼ不可能、美味しいご飯ができるちょうどいい頃合いで止まってくれる。
だが、自動炊飯器の開発は、それほどたやすくなかった。事実、日本のテクノロジー最大手が何社も参入し、何十年もかけて創意工夫がなされてきたのだ。
何世紀ものあいだ、ほとんどの日本人はかまどで米を炊いてきた。箱形のコンロに重い鉄釜が乗ったものだ。
それはあまりに大変な仕事だった。フードライターの伊藤牧子によれば、この米の炊き方では火加減を調節しなければならない。ぐつぐつ沸騰するまで強火、それから弱火、また強火。
「それを薪を燃やしながらやるわけですから、とても難しいんです」
毎日、日本の女性たちは夜明けに起き、数時間、汗水垂らしながら米を炊いた。(奈良にあるレストランでは、かまどで料理する体験ができる。そのコースは15分間、ふいごで炎を煽るところから始まる。)
炊飯器の「夜明け」は、1923年、三菱電機が発売したシンプルな業務用モデルと共に訪れたと伊藤は言う。1930年代には、日本軍が戦場で使う多機能の炊事機器を配備した。
だが、家庭用の炊飯器が登場するのはまだずっと先のことで、そこにはクリアすべき高いハードルがあった。
「日本のお米で求められるのは、でんぷんが糖分に変わる寸前の甘い味なんです」と伊藤は説明する。
粘り気のある歯触り、一粒一粒が立っている、みずみずしいなど、ほかにも望ましい要素がある。「自動でやる方法がなければ」どれも得がたいものだと伊藤は言う。
「それに、日本人はご飯の炊き上がりにすっごくうるさいんです」
電気炊飯器がソニー初の発明品
事実、いまや日本を代表するまでになったある会社は、ご飯の炊き上がりがまずくて、草創期に“つまずき”を経験した。
1945年、戦争で荒廃した日本が再建に向けて歩みはじめた頃、井深大という名の技術者が、開店休業中だったデパート内の電話交換台が置かれていた部屋を最初の本部に選び、ラジオ研究所を立ち上げた。
その翌年、井深が書き留めた言葉は、1958年から「ソニー」として知られるこの会社にとって象徴的なものとなった。
「会社設立の目的
一、真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」
その未来がどれほど明るくとも、井深の下で働く技術者たちが暮らしていたのは戦後日本だった。ラジオ修理の報酬には、米の現物支給も含まれていた。それが、創業間もないこの会社の記念すべき最初の発明につながったのだ。
それはしゃれたラジオなどではなく、電気炊飯器だった。独創的ではあったが、荒削りだった。素朴な木のお櫃の底にアルミ電極を貼り合わせたものだ。当時は妙案だった。ほとんどの燃料は高かったが、電気は割と余っていたからだ。
井深はお櫃をトラック1台分も買い込み、炊飯器に作り替えた。友人が闇米を手に入れてきて、それで試し炊きをした。
だが、この気難しい機器は、米が常に上質でないと上手く行かないのだと井深は言い張った。質があまりよくない米は吸水が不均一で、パサパサに乾くか、どろどろに煮崩れるかのどちらかだった。
「白木屋の3階に座って、来る日も来る日も食えたものじゃない米を食わされていたことを思い出す」と井深は後年に回想している。
倉庫の壁に積まれたお櫃の山を前にして、井深は実用的な機器を何か作る見込みもなく、ラジオ修理に戻っていった。
以後、ソニーが炊飯器を作ることは二度となかったが、品川にある同社のミュージアムにはその素朴なお櫃の試作品が展示されている。
ソニーの機器は炊飯器の歴史で線香花火のごとくはかなかったものの、日本のほかの電機メーカー大手がその発想を追求することになった。
電力炊飯器が多く発売されたが、どれも常に注意して見ていなければならなかった。つまり、自動ではなかったのだ。
史上初の自動炊飯器は東芝から
それが起こるには、東芝のある営業マンの登場を待たねばならなかった。
1950年代の初め、山田正吾は日本中を回り、東芝の電気洗濯機を宣伝していた。山田は営業しながら、主婦たちに最も面倒な仕事は何かと聞いた。答えは、1日に3度の飯炊きだった。まだかまどで炊いている地域も当時はあった。
COURRIER
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