1964年10月1日に東海道新幹線が開業してから半世紀以上が過ぎました。
日本を代表するもののひとつとして、海外でも有名ですが、半世紀以上もの間に死亡事故はゼロです。
以前一度、駆け込み乗車で無理をした高校生が指を挟まれて、そのまま引きずられ、最後は新幹線に巻き込まれてしまった死亡事故はありました。
ですがそれは、どちらかというと乗客が無理をしたために起こった事故。
本来の意味での列車事故はいまだにゼロです。
速さだけではなくてその信頼性の高さは世界に誇れるものに間違いありません。
ではどうしてでしょうか?
素晴らしいものの影にはやはりその理由が隠されています。
東海道新幹線の場合、1年に12万本もの新幹線が走っているそうですが、それは3分間に1本の割合であることを意味します(多い日で一日400本以上)。
それにもかかわらず、1列車あたりの平均遅延時間はわずか0,5分だそうです。
しかもその数字は台風などでの遅れを含めた統計なので、普段の遅れはほぼゼロです。
本数を増やすことで混雑をなくしたいという、お客様本位の考え方から来ているそうです。
一体どちらがお客なのか分からない国々とは違い、日本なら当たり前のことなのでしょうか。
列車の数の多さは、時間の正確さが必要不可欠で、それをこなすためにはどうしてもシビアな時間の管理が必要です。
でもその数をこなすためには、どうしてもシビアな時間の管理が必要です。
それをどうやってこなしているのでしょうか?
そこには、運転手のお仕事が大きな役割を果たしているのです。
新幹線の運転手というと、旅客機と同じように自動操縦に任せっきりで、運転手は暇なのでは? と、思いがちですが、それは大間違い。
何と新幹線の運転手は全員がアナログ腕時計を携帯して常に時間の計算をしているのです。
例えば「のぞみ」の場合、東京を発車して名古屋までの間に9つの通過駅があります。
その各通過駅で、秒単位の通過時間を確認しているのです。
なぜアナログ時計なのか?
例えば通貨時間が13時22分の場合、デジタル時計では時間の差の計算が大変です。
でもアナログ時計なら計算がしやすくなります。
とはいえ、各通過駅を秒単位の正確さで通過するのです。
通過する際に各運転手は手で示しながら、テイツウ(定通=定刻通り)、ソフツウ(早通=早過ぎ)、エンツウ(延通=遅れ) と声に出して確認します。
アナログ時計の理由は、例えば時速100km/hで走った場合、
各駅間数回、40回以上、
コンピューターを使わない理由は、
各運転手が常に時間の観念を身体に染み付けるためです。
不慮の事故の際に備えたものです。
日々わざわざ暗算で計算して鍛えておくわけです。
暗算は、無理な加速やブレーキを防ぎ、より乗り心地の良い運転を提供するためです。
各運転手は、本物の新幹線に似せたシュミレーションシステムで定期的にテストを行われます。
そこでは、技術的な不具合の発生をわざと出して、普段の運転を続けながらその不具合を、マニュアルに沿って解決する訓練を受けます。
そのシュミレーションでは、起こりえる全ての故障を再現することができ、運転手は運転を行いながらその故障に対応しなければなりません。
つまり、暗算を繰り返す普段の運転を続けながら故障を探してゆくのです。
東海道新幹線全体を統御する運行管理部署は東京にあります。
70名以上で365日、24時間体制で管理しています。
安全性を保つためにそれがどこにあるかは秘密で、そこでは広いパネルに、東京から新大阪までの路線がデジタルで描かれています。
どこをどの新幹線が現在走っているかが全て一目瞭然です。
実は全く同じものがもうひとつ大阪にも用意されています。
それは、もし天災などで東京の制御システムが使えなくなってしまった時に、ただちに大阪側にスイッチできるようにするためです。(阪神淡路大震災以降)
東京と品川の間、大井車両基地で2日に1度の仕業検査が行われ、重要なポイントがチェックされます。
そして月に一度の交番検査、列車ドック、毎1年半に行われる台車検査ではモーターや車輪をはずして分解します。
3年に一度の全般検査は、ほぼ全ての機器を取り外し、1ヶ月間かかる検査で塗装もし直します。
それらは3年で500回以上の検査、大井での1年間の検査回数は1万回であることを意味します。
検査の方法は4重のチェックで、交番検査の場合、まずは2人1組で検査開始して、例えば下部の制御部分をチェックします。
異常がないことが分かって閉めたふたがきちんと閉められているかどうかを2人目が確認。
その後、3人目、4人目が加わり、3人目がエラー防止で再チェック、4人目はそのチェックが抜かりがないかどうかのチェック。
明治時代に始まった確認方法で、工具が所定の位置に戻っていなければ、その新幹線は検査場を出れません(飛行機と同じ)。
特に検査に力を入れるのはドア周りで27箇所。乗客の乗り降りをさまたげ、時間を奪う可能性があるからです。
さらには線路のメンテナンスには、特別検査車両のドクターイエローを使っています。
1mm単位のレーザー照射による線路のチェック、パンダグラフと接するトロリ線の交換は毎1.5km。
毎夜3千人の補修作業。線路の石(バラスト・クッション) の交換。1mの深さで毎日。
行えるのは一日わずか50mで全区域515kmを10年かけて一巡。
特殊車両3台で石交換、石を震わせて詰める、線路を震わせて石を詰める、その後は手作業でならす。
対照的に西洋では時々列車事故が起きていますが、例えばドイツのICEは多数の死者を出す大きな事故を起こしています。
それ以前の問題として、夏の猛暑でクーラーが効かなくなるという不祥事などを起こしています。
2029年~2033年には、ついにイギリスで日本(日立)の新幹線が走るそうです。
実は現時点でも、イギリスの長距離鉄道路線では、旧来の古い車両から日立製作所で作られた車両に次々と置き換えが進んでいるそうです。
イギリスの長距離3大幹線のうちの2路線では、もう既に日立製新型車への更新がほぼ完了しているそうです。
残りの1路線でも、来年2022年には置き換えが始まるそうです。
10年間にもわたって、英国の鉄道界で実績を積んできた日立が、フランスのTGVのアルストム社と共同で新幹線を受注したそうです。
蒸気機関も、蒸気機関車も、発明したのはイギリス。
1872年、明治政府ができてまだ間もない頃、新橋、横浜間で日本初で鉄道を走らせたのは確かイギリス人。
そうか〜! だから新橋の駅前には蒸気機関車が置いてあるんだ!
フランスと共同とはいえ、そのイギリスで新幹線を走らせる今の日本(日立)…
蒸気機関車と言えば思い出すのが、あの黒船のペリーです。
ペリーの頃は、イギリスの蒸気機関車も既にアメリカに伝わっていました。
ペリーが日本に2度目にやって来て無理矢理日本に開国させた時、蒸気で走る数分の1の蒸気機関車のモデル(動く模型)を持ってきました。
当時の日本は鎖国で遅れていたので、蒸気機関(車)を初めて見た幕府の人間はびっくり。
「アメリカってすげ〜!」と思わせて、開国や通商条約を少しでもアメリカにとって有利に運ぼうとしていたペリーの作戦は大成功でした。
ところが、鎖国で遅れていたとは言っても、元々は優秀で真面目な日本人。
鉄砲も、伝わるやいなや、すぐに量産を始めて世界一になってしまうほどです。
ペリーのお土産として置いていかれたその蒸気機関車は、田中久重などの優秀な技術者が集められてすぐに分析が行われました。
田中久重は、東芝の元となる会社を設立した人で、東洋のエジソンと言われるほどの発明家でもありました。
田中久重の会社には、現在の沖電気の創業者、宮田政治郎(モリタ宮田工業創業者)、池貝庄太郎(工作機械の池貝の創業者)、石黒慶三郎(アンリツ創業者の1人)などの優秀な人が集まっていました。
田中久重は、「からくり人形」や「万年時計」でも有名です。
「万年時計」は1851年に製作され、国の重要文化財に指定されています。
2004年に東芝、セイコーなどの研究者によって分析・復元され、レプリカが2005年の愛・地球博で展示されました。
復元作業には約1億円の費用と100人の技術者、最新の機材が投入されましたが、結局最後まで動かすことが出来なかったそうです。
ペリーが蒸気機関車を持って来たのは1854年2月13日。
あれっ? 計算が合わない…
新幹線といえば、以前面白いお話がありました。
知人で、ドイツ人男性と結婚した日本人女性の夫婦と一緒に夕食を共にした時です。
彼は、「頑張れ日本ドットコム」の新幹線に関する情報のところに間違いがあるといいます。
新幹線は、開通以来半世紀以上も無事故という記述です。
彼曰く…
「新幹線は数年前に中国で大事故を起こしているじゃないか!」
というものでした。
日本に関する外国人の情報の奥行きはこの程度なのです。
鉄道(蒸気機関車)は、1800年代の初めにイギリスで生まれ、1872年に日本で最初の鉄道を走らせたのもイギリス人技術者でした。
その約200年後、鉄道技術で優秀な日本が、イギリスの長距離鉄道を受け持つことになりましたが、何とそのことを予想していたのが、日本に初めて蒸気機関車の模型を持ち込んだ黒船のペリーでした。
「実用的、機械的技術において日本人は非常に巧緻をしめしている。(中略) 彼らの手作業の技術の熟練度は素晴らしい。日本の手工業者は世界のいかなる手工業者にも劣らず練達である。
よって国民の発明力が自由に発揮されるようになったら、最も進んだ工業国に追いつく日はそう遠くはないであろう。他国が発展させてきた成果を学ぼうとする意欲が盛んで、学んだものをすぐ自分なりに使いこなすことができる。
だから、国民が、外国との交流を禁止している排他的政策(鎖国) が緩められれば、日本はすぐに、最も恵まれた国の水準までに達するであろう。文明世界の技能を手に入れたならば、日本は将来きっと機械工業の成功を目指す強力な競争国となろう」ペリー提督日本遠征記 上・下