韓国で貢献・活躍した日本人

梨本宮方子(韓国名 李方子) 王妃
韓国政府から、「牡丹章」と「文化章」を授与される。韓国で、知的障害児のために、自立職業訓練学校「明暉園」、「慈行学園」、慈恵学園」などを開校して尽くし、韓国の障害児の母と呼ばれる。
 
朴正煕大統領夫人...:
「李方子妃殿下は、60年代に誰もがしなかった身障者事業をはじめられました。日本の皇族のご出身で、奉仕活動を真心から率先なさったことは、韓国国民に対する日本人女性のイメージを向上させ、激しい日韓関係を和らげる役割を果たされました。また、妃殿下が社会奉仕をなさったことで、上流社会の人たちがボランティアをすることになったといえます」
 

「李方子」小田部雄次著
「流れのままに」自叙伝 啓佑社
梨本宮方子に関する詳しいサイト、本当の日本の歴史を伝える会
「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

 

 

布施辰治 弁護士
朝鮮独立運動に関する事件、二重橋爆弾事件、朴烈事件、阪神教育事件、平事件、台東会館事件などの多くの朝鮮人関連事件で弁護を担当。
 
2000年2月、韓国文化放送、「PD手帳」にて、「発掘日本人シンドラー布施辰治」と題した放送が行なわれる。日本人として唯一の、大韓民国建国勲章の受章者。
 

Wikipedia
嶋村初吉のブログ

 

 

野口遵(のぐちしたがう) 日本実業家(1873年~1944年)
日本人は、台湾(日月潭)や中国(満州)に限らず、韓国北部にも巨大な水力発電所を作った。その第一号は、金剛山電気で、赴戦江、長津江、虚川江と、当時の日本の水力発電単位が千キロワットであったのに対し、それらは1万キロワットが単位になっている。
 
日本窒素肥料を中心とする日窒コンツェルンを一代で築き、旭化成や積水ハウスの創業者でもある野口は、朝鮮産業革命の開祖として、「電気化学工業の父」、「朝鮮半島の事業王」などと称されて、朝鮮人の大恩人と言われている。
 
電気技師の森田一雄と、土木技師の久保田豊は、野口の命を受けて鴨緑江上流をせき止めて、17万キロワットの巨大発電所を建設。さらに2年後、20万キロワットの発電所を作って合計37万キロワットとし、世界一の水電解設備能力のコンビナートも建設。
 
そして白頭山、豆満江、虚川江など12ヵ所に続々と発電所を作って87万キロワットの電源を確保、朝鮮半島全域に電力を供給するという空前の事業を成し遂げる。
 
晩年、病に倒れると、全財産を朝鮮の科学分野と朝鮮人子弟の教育振興のために寄付。


 「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

 

 

目賀田種太郎 大蔵省主税局長
1904年に成立した第一次日韓協約による日本政府の推薦で、大韓帝国の財政顧問として迎え入れられる。100年以上も続いた、不明瞭でずさんな王室費管理、皇室の権威をカサに暴威を振るう私腹肥やし、下級役人の不正、政府高官や宮内府高官の汚職などにメスを入れ、中央銀行に匹敵する大韓帝国銀行を設立し、新しい金庫制度などによる財政改革にて挑戦の財政再建を果たす。
 

 「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

 

 

浅川伯教・巧兄弟 朝鮮の陶磁器・木工品の美(1884~1964・1891~1931)

それまで見向きもされなかった“李朝”-朝鮮時代の陶磁器や工芸品を1920年代以降、一躍注目を浴び、多くの陶芸家、研究者、愛陶家の眼を見開かせるのに大きな役割を果たしました。

植民地期(1910~45)の初期に朝鮮半島へ渡った二人は、朝鮮家屋に居をかまえ、現地の人々に溶けこみながら暮らします。そして伯教はやがて朝鮮陶磁研究の第一人者となり、また弟の巧も、陶磁器および朝鮮の木工品について名著を残しました。

一方で兄弟は柳宗悦(1889~1961)に大きな影響をあたえ、柳の朝鮮美術工芸への案内役となります。そこに富本憲吉、河井寬次郎、濱田庄司らが加わり、後の「民藝」誕生へとつながりました。


高円寺・美容室・美容院・STYLES・スタイラス

 

 

有賀光豊 朝鮮殖産銀行頭取
「目賀田はただ財政金融近代化の基礎だけではなく、産業開発から貿易振興にいたるまで、朝鮮半島開発の基礎作りをした人物である」

 

 「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

 

 

高橋昇 農学者(1892~1946)
植民地時代、朝鮮の農業・農法は遅れたものとされ、日本が指導するという朝鮮停滞史観が幅を利かせていた。農業も、日本式を押し付けようとしたが、これに反対したのが、高橋昇である。
 
彼は朝鮮総督府農業試験場西鮮支場長を長く勤め、朝鮮の風土に対応した農法を説いた。朝鮮半島の農村を回って、研究調査活動を行い、朝鮮の農民に接して、当時の半島の現実を、土地利用の形態、耕作法、農民の暮らしなどを記録、取集した。朝鮮伝統農法の合理性・優秀性を再認識させた。
 
高橋昇が集めた膨大な資料は現在、京畿道・水原市の農業科学館の一角で展示され、その業績を称えているという。韓国人が、日本人を恩人として尊敬している数少ない人のひとりである。


「朝鮮半島の犂」 高橋 昇
「朝鮮全土を歩いた日本人」河田宏
「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

 

 

 

台湾同様、韓国併合の際に日本は、最新の技術で自国以上のレベルで韓国の近代化に多大な貢献をする。
 
1910年、日韓併合時にわずか100校しかなかった公立学校を20年の間に1.500校に増やし、1942年までには鉄筋コンクリート、レンガ作りで4.271校を設置。
 
日本で最初に作られた地下鉄が、1939年の東京銀座線。そしてその翌年には京城に地下鉄を作る。その後1945年までに、私鉄も合わせて6千kmの路線を開通させる。
 
京城帝国大学は、大阪大学より7年も前に設立。

 

国会中継ビデオ

 

 

 

 

 



日韓合併時の韓国には学校、病院、樹木がとても少なかっただけではなくて、食糧難にも陥っていました。


そこで日本は毎年朝鮮総統府予算の15%〜20%の資金補助を出して、何人もの日本人関係者が活躍貢献しています。その規模には、同じように統治していた台湾総統府から不満の声が上がった程だそうです。

 

「髙橋博士の残された貴重かつ膨大な資料によって、韓国農業のさらなる研究開発が進むことを期待できます」


韓国農法振興庁の金仁植庁長

 

女性教育の先駆者で津田塾大学の創立者、津田梅子の父親である津田仙は、朝鮮の開化派の一員である安宗沫を通じて自著の「農業三事」を通じて朝鮮の近代新農法の啓蒙と普及に大きな役割を果たし、初期の朝鮮農政改革に大きな影響を与えただけでなく、新農法の啓蒙と推進のために仁川に設立された農務社に大きな支援と協力をしました。

 

あの今村均大将(*)に、「もし宇垣一成が首相であったなら、大東亜戦争は起こらなかった(第二次世界大戦への日本の参戦はなかった)であろうし、起こったとしても切り上げどきを間違えなかったに違いない」と言わせた総督時代に朝鮮で断行したのは、農山漁村振興運動で、それは徳川時代の上杉鷹山や徳川光圀、二宮尊徳の藩政改革、藩の復興以上だという評価を受けている。


* 1915年12月11日、陸軍大学校27期を東條英機が11番、今村均が首席で卒業。第二次世界大戦のインドネシアでは、9日間で約9万3千人のオランダ軍と約5千人のイギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍を無条件降伏させたり、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯を解放して資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、オランダ軍から没収した金で各所に学校を建設したり、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めたりするなど現地住民の慰撫に努めた。現地の住民にだけではなく、敵対するオランダ軍にも温情で接して日本の大本営から批判を受けた人物。

 
 
 
 
「朝鮮旅行記」著者のペ・エム・ジェロトケヴィッチがその本の中で、「山は禿山、植生はほとんど見られない」、「樹木はほとんど皆無」と書いています。
 
そして、日韓合併後の初代総督の寺内正毅は、「大君の恵みの露にうるおいて高麗の山河色まさりゆく」という和歌を詠んでいます。日韓合併の時の日本の任務は、朝鮮半島での学校や病院の建設、農業改革による食糧難脱却以外にも、最優先課題は治山治水、植林でした。そして1918年から1942年までの間に6億622万本の植樹を行いました。
 
その時に活躍した1人が、小説「白磁の人」の浅川巧です。朝鮮半島の禿山の植林には樹種はミヤマハギが最適であることを発見し、「露天埋蔵法」という独自の育苗法で、朝鮮ゴヨウ松と朝鮮カラ松の育苗に成功しました。
 
少ない収入から朝鮮人の学生たちに奨学金を与えたり、憐れな物売りからわざと高い値段で買ったりしていました。そのために家の勝手口には感謝の品が届けられたりしたそうです。「日韓2000年の真実」名腰ニ荒之助著。42歳の若さで亡くなった彼の訃報を知った朝鮮の人々は、揃って弔問に訪れて慟哭したそうです。
 
 
 
 
「朝鮮旅行記」著者のペ・エム・ジェロトケヴィッチがその本の中で、「山は禿山、植生はほとんど見られない」、「樹木はほとんど皆無」と書いています。
 
そして、日韓合併後の初代総督の寺内正毅は、「大君の恵みの露にうるおいて高麗の山河色まさりゆく」という和歌を詠んでいます。日韓合併の時の日本の任務は、朝鮮半島に学校や病院を建設する以外にも、最優先課題は治山治水、植林でした。そして1918年から1942年までの間に6億622万本の植樹を行いました。
 
その時に活躍した1人が、小説「白磁の人」の浅川巧です。朝鮮半島の禿山の植林には樹種はミヤマハギが最適であることを発見し、「露天埋蔵法」という独自の育苗法で、朝鮮ゴヨウ松と朝鮮カラ松の育苗に成功しました。
 
少ない収入から朝鮮人の学生たちに奨学金を与えたり、憐れな物売りからわざと高い値段で買ったりしていました。そのために家の勝手口には感謝の品が届けられたりしたそうです。「日韓2000年の真実」名腰ニ荒之助著。42歳の若さで亡くなった彼の訃報を知った朝鮮の人々は、揃って弔問に訪れて慟哭したそうです。
 
 
 
 
韓国で孤児133人を養育し、38度線のマリアと呼ばれた望月カズ
1964年にソウル特別名誉市民賞、1971年に大韓民国国民勲章冬柏賞、1976年に吉川英治文化賞、1983年に勲五等宝冠章を受け、「愛は国境を超えて」の主人公のモデルになった望月(永松)カズには父の記憶がほとんどなく、6歳の時に母が殺害されて自らが孤児として育ち、日本兵士から文字と算数を教わりました。少しも裕福ではなかった彼女は、理容師、軍手編み、薪や木炭、自らの血液までを売って朝鮮戦争で孤児となった子どもたちを合計133人をも養育しました。
 
理容師の免許のことで警察に連れて行かれた時には、その時の子どもたち32人が警察署の前で訴えて釈放されたり、大韓民国国民勲章冬柏賞の叙勲式の時には下駄履きで現れ、職員からせめて靴を履くように言われて「これしかありません。これがダメなら帰ります」と言うようなエピソードが残っています。
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