河原操子(かわはらみさこ) 教育者
26歳の時に、中国人教育のために唯一の日本人教員として上海の務本女学堂に派遣される。不衛生なためにそれまで外国人が住んだことのない中国人街に寄宿し、その教えぶりには東京高等師範学校校長の加納治五郎も絶賛し、それを内田康哉公使が着目し、蒙古派遣への白羽の矢が立つ。
カラチンの王府到着後、わずか1週間で「毓正女学堂」を開設。王妃の経営のもと、王の妹、侍女、重臣の子女を生徒に、良妻賢母教育をほどこした。教えた科目は終身、蒙、中、日本語、歴史、地理、算術、理科、図面、裁縫、音楽、体操と多岐にわたり、授業には王と王妃も出席して生徒と一緒に学ぶようになった。そして王妃は教育立国の夢を抱くようになった。
帰国の日には、前代未聞となる、カラチン王と王妃まで見送りに出る。そして王妃は...
「河原先生、どうぞ蒙古の人になってください。必ず1,2年で戻ってきて欲しい。約束を忘れないで」
「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫