堀口九蔓一(くまいち)は1899年にブラジルの公使に赴任しましたが、日本政府からの要請で1903年12月、日露戦争の直前に、軍艦を2隻購入すべくアルゼンチンと交渉。
海軍の軍備を増強しなければロシアに負けてしまうと焦っていた日本が、イタリアの造船所で作られて完成したばかりのアルゼンチンの軍艦、モレノ、リヴァダヴィサの2隻を購入しようと目論みました。
日本はその2隻を無事に購入できて、それぞれ日進、春日として日本海軍の軍艦にしました。これら
その2隻の軍艦は、ロシアも購入を狙っていましたが、同盟国であるイギリスの仲介と堀口の交渉によって日本が購入できました。
その後、メキシコで臨時公使をしている際には、1913年の軍事クーデターでフランシスコ・マデロ大統領を打倒するクーデターが勃発。
鎮圧を任されたウェルタ将軍がクーデター側に寝返ってマデロ大統領を殺害し、自分が独裁大統領に就きました。
身の危険を感じたマデロ夫人と子どもたちは、ロシア戦争での日本の毅然とした態度と強さを知っていたので、治外法権のある日本公館を選んで逃げ込みました。
当時はまだ治外法権の定義、認識がしっかりしていなかったため、クーデター軍は日本公館に押し寄せました。
その時に堀口は、入り口で日章旗を背負い、「大統領夫人と子どもたちを殺したいのなら、その前に私を殺せ! そしてこの日章旗を踏みつけて乱入するがよい。
その代わりに日本は絶対に君たちを許さない! その覚悟でやれ!」と言ってクーデター軍はひるみ、大統領夫人と子どもたちは襲われずに済みました。
その後もまだ安心できなかった堀口は、ウェルダ大統領に直談判で詰め寄りました。
「『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず(追いつめられた鳥が懐の中に入っては、いくら猟師でも殺すことはできない。 人が困窮して救いを求めて来れば、助けるのが人情であるということ)』という言葉が日本にはあるが、メキシコではどうなのか!」 と。
そのためにマデロ元大統領夫人と子どもたちは無事に船で国外に逃げられることになりましたが、堀口はその時も身体を張って現場まで約束が守られるかどうかを確認に行きました。
2015年、そのことが称えられて、メキシコで日本の国会にあたる建物の栄誉の壁に、メキシコ人以外で初の外国人の名前である堀口九蔓一の名が感謝を込められて刻み込まれました。