作家、星新一の父、星一は若い頃にアメリカに渡り、苦学してコロンビア大学を卒業して帰国、製薬会社と薬科大学を一代で創設した実業家です。
星一は当時、アヘンから作れるモルヒネの国産化に挑戦して成功しました。
当時の大物政治家のひとり、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣兼鉄道員総裁、外務大臣、東京市(現東京都)第七市長を歴任した後藤新平と親しかったことから、日本では国際相場の3〜4倍の価格のするアヘンを台湾から輸入することに成功。
モルヒネの国産化に成功して、星製薬は飛躍的な発展を遂げました。
そしてその頃の1919年、助けられた後藤から、後藤がドイツに留学中に友人となったゾルフ大使を紹介されます。
その頃のドイツは、第一次世界大戦で敗戦国となり、講和会議で過酷な講話条件を突きつけられ、世界に名だたるドイツ科学界が、実験用のモルモットさえも購入できないほど苦しい状況にあることを知ります。
そこで星は早速援助を申し出て、巨額の支援金をドイツ政府に送りました。送金の依頼を受けた横浜正金銀行も、星の行為を意気に感じて、手数料を取らずに送金しています。
ドイツ側ではこの星基金を公正に活用すべく、「日本委員会(星委員会)」を設立し、委員長にフリッツ・ハーバー、委員にマックス・プランク、オットー・ハーンなどの3人の錚々たるノーベル化学賞受賞者を就けました。
1922年、星はドイツ政府から招待を受けてドイツを訪問し、ドイツの主要化学工業関係の会社社長20数人が集まった席で感謝を受け、エーベルト大統領からも晩餐に招かれて記念品を受け取り、ベルリン大学区からは名誉市民権を受けました。
それを受けて星はさらなる毎月の3年間、援助を続ける決意をしましたが、その翌々年に星委員会の委員長であるハーバー博士夫妻が来日し、エーベルト大統領からの親書と記念品、ベルリン工科大学からの工科大学名誉交友章を受けました。
さらには、莫大な売上、利益に結びつくドイツ染料の日本での独占販売権を提案されますが、それはおかしいと言って断ります。
3年間の援助を続けていた星は、星製薬に対する同業者からの強い嫌がらせを受けて訴えられ、有罪となって一時は破産宣告にまで追い詰められますが、それでも自宅を売るなどしてドイツ科学界への援助は続けました。
そして時は流れて1980年、ドイツは恩人である星に対する研究と顕彰が始まります。ドイツ東亜学者のエバハート・フリーゼ博士が著した「ドイツ科学の後援者星一氏」は、その代表的な論文のひとつです。
占部賢志著「美しい日本人の物語」