チベットで貢献・活躍した日本人

河口彗海 僧侶、仏教学者

日本の仏教の元となる漢訳仏典には種々の異同、解釈の相違があることを知り、仏教をきちんと研究するためにはチベットへ行って原典である梵語経典およびチベット仏典を持ち帰らないと決意し、日本人で初めての鎖国主義のチベット入りを果たす。

日本人であることを偽ってセラ大寺に入学してチベット仏教を学ぶ。同寺で毎年2,3人しか通過しない博士への口答試験にわずか1年で合格。「僧は学問ができるだけでは務まらない。人格的にも優れていなければならない。みな彗海を目指して学びなさい」と言われ、創建600年の歴史の中でも優れた僧とされる。

医者としても活躍し、小僧の怪我を治したことで、それまで病気になると経を読むしかなかった患者が彗海のもとに集まる。300kmも離れたところからも患者が訪れ、決して金を取らなかったことから民衆からも尊敬されて、「生きた薬師様」と呼ばれた。

講堂にはダライ・ラマやバンチェン・ラマの零等塔に並び、彗海の零等も。


「日本人の足跡」産経新聞 日本人の足跡取材班著
「世界から絶賛される日本人」黄文雄、徳間文庫

 

 

矢島保治郎(やすじろう、1882- 1963) 探検家

緊迫状態の続く四川省からのルートで初めてチベット入りし、河口慧海、成田安輝、寺本婉雅に次ぐ、チベットに入国した4人目の日本人(矢島以外は3人ともインドから入国)。ダライ・ラマ13世の厚遇を受けてチベットの軍事顧問に就任。  

 

チベット軍の参謀総長と知り合いになり、軍事顧問として迎えられ、兵舎の設計や部隊の教練も依頼された。さらに、矢島の訓練した隊の演習成績が特に良かったことがダライ・ラマの目にとまり、近衛兵の編成と訓練を頼まれるようになる。

矢島は親衛隊長としてダライ・ラマが巡幸を行なうときは常に近衛兵を率いて護衛にあたり、また現地の豪商の一人娘と結婚して子供も産まれた。
 
ダライ・ラマからは絶大な信頼を得ており、その例をあげると、矢島はノルブリンカ離宮内に住居を与えられていたのだが、結婚した際には、離宮は女人禁制の聖域であったにもかかわらず、特別に妻と共に生活することを許されるほどであった。
 
しかし、その後イギリスのインド政庁がダライ・ラマに矢島の追放を要請。ダライ・ラマは形の上ではこれを拒否したものの、チベットが親英路線にある現状として、これを完全に無視することはできない話であった。
 
矢島としてもその辺りの事情はよく判っており、1918年(大正7年)10月、妻子を連れてラサを発ち、インドを経由して日本へ帰国した。
 

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国旗国家と教育勅語を見直す

 

 

青木 文教(1886 - 1956) 日本のチベット研究者、僧侶
西本願寺法主・大谷光瑞の命でチベットに派遣され、1912年(大正元年)にラサ入りを果たす。
  
多田等観とともにラサに滞在したが、多田等観がセラ寺で修行生活を送ったのに対し、青木文教はラサの街に居住し、特技の写真撮影の腕を活かして多くの当時のチベットの風景・文物を記録した。またチベット仏教を研究し、主にチベットの市井で多くのチベット仏教に関する文物を収集した。
  
チベット国旗である雪山獅子旗のデザインもする。また今に言うバックパッカー的な存在だったとも伝う矢島保治郎が当時のチベットの軍事顧問であったとして共にデザインへ関与した説もある。
  
そして、文教がチベットを離れる最後の一夜はダライ・ラマ13世と就寝したなど、深く現地に溶け込んだ。1916年帰国し後年(1950年)東京大学文学部チベット語講師に就任。

 

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